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〈朝鮮人強制連行と麻生炭鉱 −中−〉 タダ働き 「宮城遥拝」「君が代」

被連行者の証言から

筑豊炭鉱に強制連行された同胞たちの遺骨が安置されている無窮花堂(福岡県飯塚市)

 「結婚して半年後に連行された。今でも朝鮮の故郷とともに、妻の顔が夢の中に出る。どこへ連れて行かれるかもわからないまま、三日がかりで筑豊の麻生赤坂炭坑へ。四日目から仕事に就かされ、日ごとに食事が少なくなった。昼の弁当もいっしょに食べたことがばれて桜の棒でたたかれた。就労時間は午前6時から午後8時まで、一度坑内に入るとお日様を見ることはない。

 昭和19年の10月に落盤で肩の骨を折った。が、治療どころか間なしに仕事させられた。人間一人死んでもアリ一匹死んだのと同じと思うと悔しかった。

 日給は2円だったが、労務が国に送金してやるといって金を手にすることがなかった。友人に頼んで家に手紙を出して問い合わせたが、届いていなくて返事はなく、タダ働きさせられたことに腹が立った。

同胞たちの血と涙の歴史を語り継ぐ無窮花堂の追悼文

 赤坂炭坑では、朝たたき起こされるとすぐに寮の広場に集められて、意味もわからないまま『宮城遥拝』と『君が代』斉唱をさせられた」(文有烈さん)

 「1942年(昭和17年)の夏、ちょうどお盆の15日、私たちは大暴動を起こした。飯を腹いっぱい、そして労働時間をもっと短く、暴力だけはやめてくれと朝鮮人の班長を通して要求していたが、なしのつぶて。盆休みもなく『この非常時に何を言うか! 大日本帝国臣民の精神をたたき込んでやる』と、いきまいた労務に反発を大きくした。抗夫たちは、いっせいに立ち上がった。まず労務事務所を叩きこわして占拠した。電話線も切った。飯塚署からトラック10数台に分乗して警官隊が来た。激突の三日間だった。が、同胞にケガ人が出たので占拠を解いた。70人が警察に連行された。

 私たちは同胞21人とともに、吉隈坑を脱走した。昼は竹藪に隠れ、夜間歩き続けた。三日目の夜、やっと大牟田の同胞のもとにたどりついた」(金某さん)。

麻生セメントKK

 JR後藤寺線と県道鶴三緒田川線が接する位置に、船尾駅がある。田川盆地の一角にあたり、白い石灰岩むき出しの船尾山の全貌を正面にすることができる。左右にそびえ立つ巨大な煙突の1本は麻生セメント田川工場、1本は閉鎖されて間もない三井セメントKKである。

 麻生セメントの前身は産業セメント鉄道KKで、その筆頭株主が外相麻生太郎の父、多賀吉であった。すなわち鉄道会社でそれまでに蓄積されていた石炭資本で船尾山を買収してセメント産業に打って出たのである。太郎は、先代の跡を継いで社長に就任した。しかし1979年(昭和54年)、福岡県から衆議院議員に出馬、当選したので社長を辞めた。以来、昨今まで地元の確固たる票田をバックに議員職を続け、ついに外務省のトップに起用された。

外務大臣発言

 日本の植民地支配下における朝鮮人の「創氏改名」は、「朝鮮の人々が満州で仕事がしにくいから、名字をくれと言ったのがそもそもの始まりだ」「植民地支配による義務教育がハングル普及に貢献した」(いずれも東京大学でおこなった講演で、03年5月31日)。

 「靖国の話をするのは、世界で中国と韓国だけ、ほかから言われたことはほとんどない」「(靖国問題によって)日本が孤立しているとか、好かれていないとか、どうでもいいことは気にしなくていい」(いずれも金沢市内で開催された講演で、05年12月12日)

 「私自身があそこで一番問題だと思うのは、祀られている英霊の方からすると、天皇陛下のために万歳と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロですよ。だったら天皇陛下の参拝なんだと思うね、それが一番」「(天皇参拝が)何でできなくなったのかと言えば、公人、私人のあの話からだから。それをどうすれば解決するかという話にすれば、答えはいくつか出てくる」(いずれも公明党参議院議員後援者らの会合で、06年1月31日)

 「日清戦争の頃、台湾という国を日本に帰属することになったときに、日本が最初にやったのは、義務教育です。貧しい台湾の人々が、子どもを学校にやったらカネをとるという大英断を下した」 「結果として、ものすごく教育水準が上がって識字率が向上した。おかげで台湾という国は、きわめて教育水準が高い国であるがゆえに今の時代に追いつけている」(いずれも福岡市で行った講演で、06年2月4日)

 「(中国の軍事力の)内容が、外にはなかなかわかりにくいというのは、透明性という点に関しては、不信感をあおる。前原さんが言っている(中国が)脅威で、不安を煽っているというのは確かだと思う」「隣国で10億の民を持って、原爆を持って、軍事費が毎年2ケタの伸び、連続17年間、内容がきわめて不透明というんだったら、どんなことになるかなあということに関しては、かなり脅威になりつつある。そういう意識はある」(いずれも記者会見で、05年12月23日)(芝竹夫、ムグンファの会)

[朝鮮新報 2006.4.11]