top_rogo.gif (16396 bytes)

〈投稿〉 ウリトンネ「武蔵野」の地名は「モン=麻」からか?

 私は今、神奈川県川崎市内の南武地域に住んでいる。多摩川の下流沿いに海に面したところが本川崎で、川の上流に沿った奥まった処が南武だ。なんで「南武」という地名になったのだろうか? 答

武蔵野の面影を今も色濃く残す神代植物園

 どうやらこの南武地域は「武蔵」という地名に関係が深いようだ。それはまず、JR南武線と東横線が交差するにぎやかで目ぼしい駅が武蔵小杉という名で、次が武蔵中原、その次が武蔵新城、そして、4番目の駅が武蔵溝口という風に「武蔵」が仲良く4つも並んでいるからである。

 こうした地域はなかなか珍しい。中央線で東京から立川に向かうと「武蔵野」という地名が沿線にあり、「武蔵境」や「武蔵小金井」などの駅はあるけれども、みな、ばらばらで私たちの地域を通る南武線ほどではない。こうした現実は昔この辺が南武蔵の一大拠点であったのか、それとも大きなトンネ(村)でもあったのかと想像され、いささかわが胸も和む。

 さて、「月が草むらから登り、草の陰に沈む」と昔からいわれたこの広大な武蔵野の大草原は、現在の埼玉県にはじまり、東京都を包み込んで神奈川県東北地域へとまたがる広い平野であり穀倉地帯でもある。

 広さ日本一を誇る関東大平野のまっただ中に横たわるこの大平原は関東武蔵と呼ばれ、7〜8世紀頃までは中央の権力は及ばず、もっぱら土豪たちによって支配され、大陸の新しい技術を持った渡来人たちによって開発が行われた。

 高麗郡(716年設置−現在の日高市付近)の創置、新羅郡(758年設置−現在の志木付近)の創設はこうした事情を物語っているものにほかならない。

 ならばこの武蔵野の「武蔵」という地名も渡来人と関わりがあるのだろうか?

 「大日本地名辞書」には南関東一帯が「総」という国名であったと記されているが、一方有名な「古語拾遺」を見ると「総」のことを「好き麻の生る処」としるされていて、関東南部一帯がみな、麻の名産地であったことを強調している。

 こうして「総」と「麻」は関係が深くなったが「総下」(南関東一帯)から「モ」の字が抜けて「フサシ」になり、さらに音便によって「ムサシ」になったという学説(段熙麟−「日本に残る古代朝鮮」)にも紹介されている。

 ところで歴史家・鳥井竜蔵氏は「武蔵野及其周囲」という著書の中で、「武蔵は…苧という草がたくさん植えられた。朝鮮語の『モン(苧麻)』から『ムサシ』という地名も来ていると思われる」と述べている。これらの説をゆっくりまとめてみると、武蔵という地名がウリナラの名産「モン」から来ていることに疑う余地はないようである。(孫済河、神奈川県川崎市在住)

[朝鮮新報 2006.4.22]