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〈解放5年、同胞映画事情−下〉 朝鮮語の映画−祖国に映画機材を−

朝鮮映画「ナグネ」の上映案内

 カタログ特集「山形国際ドキュメンタリー映画祭2005」(以下山形映画祭)に、映画監督島田耕の「金順明 祖国での撮影所作りに賭ける」という興味深い証言が掲載されている。長いが一部を引用する。

 「彼は祖国(北)での映画製作のために日本で機材を買い入れ送ることにした。映画関係者との交友もそんなことから始まった。資金は在日の実業家から出ていたと。彼の期待と機材をのせてどこかの港から船が出た。北とは今も国交もないものだからそれは密航ということになる。ところがその船が故障して成功しなかった。…金順明は有罪で服役、出所したとのことである」(18ページ)

 これを参考に追っていくと、金順明は47年12月に多くの映画機材を載せて裏日本のある港を出港する。しかし途中で船が故障して戻ってくる。船の修理中に金順明は逮捕される。そのときの罪名が「米占領目的阻碍法違反」「関税法違反」などの5つの罪で懲役3年を求刑(当時最高刑)され、2年半の判決を受けて服役する。映画の機材は、金順明が朝聨の所有物を「盗んだ」ということで朝聨に返すことになったようだ。49年9月に仮釈放されたが、朝聨が強制解散された直後であった。金順明が服役中に、朝聨の人が映画の機材を送ろうとしたらしいが失敗し、金沢の税関に没収されたという。

 このような事実から祖国の映画事業の発展のために、比較的入手しやすい日本から機材をそろえて、送ろうとした在日同胞映画人の熱意と心情が伝わってくるのではないか。戦後の複雑な状況で何とかしようとしたのであろう。ただ、現時点から見るならば明らかに問題性のある行為で、もちろん薦められるものではない。

映画に対する期待

朝鮮映画「郷土を守る人々」のカラーパンフ

 解放後、同胞の間で朝鮮の映画を観たいという切実な要求があったようだ。「朝聨中央時報」は、48年1月23日に東京・有楽町毎日新聞社6階ホールで朝鮮映画「ナグネ」(「旅人」と訳せると思うが、当時の日本語訳は「旅路」)の特別試写会があると報じている(48年1月16日)。この映画は、37年の制作で古く、観た人もいたという。しかし「このような朝鮮の映画をこんにち日本にいるわれわれが観たいという欲望は切実なものであって、この在留同胞の切実な文化的欲求を満たすため」に試写会が行われ、48年2月中旬から各地で巡回上映されたという。提供は、新光映画株式会社で、主演俳優には、文芸峰(後に朝鮮の人民俳優となった人)など。

 前掲「時報」は、「われわれの言葉で作られたこの映画を見せるということはきわめて重大な努力」として評価している。解放後の在日同胞の朝鮮語、朝鮮的なものを求める民族意識、文化的欲求の一端を想像できよう。

朝聯解散後の映画活動

 朝聨解散後、活動家たちは、51年1月9日に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結成する。民戦の時期は、朝鮮戦争の時期と重なる時期があるが、53年4月に中国を訪問していた平野義太郎が朝鮮の代表から在日同胞にと劇映画「郷土を守る人々」を託された。そのフィルムは税関で差し止めされる。そしてフィルムの返還を求める活動、字幕スーパーを入れ、上映準備をするなどの過程で同胞映画人がふたたび結集した。

 そのような過程で53年7月20日、在日朝鮮映画人集団(映集)が結成された。映集は、共和国の映画上映と「民戦ニュース」、そして民戦時代の代表的な記録映画といえる「朝鮮の子」を制作した。

 55年5月に在日本朝鮮人総聨合会(総連)が結成され、文学、芸術関係者を結集した在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)が59年6月にできると、その中に文芸同映画部が設けられた。その後59年にニュース映画「総連時報」第1号が制作上映された。74年2月から総連映画製作所となり、総連の映像部門を担当した。「総連時報」は85年までに第124号が制作された。その後「総連ビデオシリーズ」、99年からビデオマガジン「エルファ」、直近では「エルファ」が朝鮮映画専門サイトを開設し今日に至っている(この項、山形映画祭の呂運珏「総連映画製作所の歩み」を参照)。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2006.8.19]