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〈解放5年、同胞会館事情−上〉 朝聯事務所の変−「中央総本部会館」−

同胞の財産 活動の拠点

 同胞組織の会館は、同胞の財産であり、活動の拠点でもある。解放5年といえば朝聯の時代である。当時の朝聯会館所在地の変遷についてみる。朝聯は結成当時から規約で「中央本部」ではなく「中央総本部」としたので、会館も中央総本部会館となる。

最初の事務所

朝聯事務所が間借りしていた東京・角筈のビル

 朝聯結成(大会1945年10月15〜16日)直後に使った事務所は、朝鮮奨学会ビルであった。住所は東京都淀橋区角筈2−94である。現在の東京都新宿区。朝鮮総督府学務局管轄「財団法人朝鮮奨学会」のビルを借用したことになる。結成当時の同胞を代表する組織として朝聯にはそのような会館を使うことは難しいことではなかった。

 朝聯組織には、結成直後から同胞たちの帰国の案内と協力、未払い賃金の取り戻し、失業、配給など生活問題支援、子どもに対する教育問題など課題は山積した。また祖国の動向を掌握し連携するための本国派遣員活動などもあった。間借りした事務所では職務遂行に支障をきたした。

朝聯中央総本部が入っていた建物(東京・新橋)

 朝聯は、活動内容と範囲に適応する事務所を探した。そして1946年初頭からは、東京都芝区田村町1−3の会館に入る。このビルには朝鮮総督府事務所が所在していた。当時朝聯事務所に勤務した人の話によると、タイル張りで5階建ての立派な建物で、空襲による損傷もなかったという。1階に朝聯事務所を置き、2階は当時の民衆新聞社(後の解放新聞社、現朝鮮新報社の前身)が全フロアーを使ったという。これが第1ホテル裏側にあった通称、新橋の朝聯事務所であった。「私だけが知っている昭和秘史」(小山健一著、朝鮮総連が占拠していた、など同書は解説までも含めて誤認がいくつかあるが)によれば、朝鮮総督府ビルはその一帯で4、5個の高いビルの一つであり、ビルの敷地は縦100メートル、横50メートルの広大なもので虎ノ門の満鉄ビルと並ぶ巨大な威風堂々たる建物であったという。

 聞くところによれば、購入すればとの話があったようだ。ところが「気勢高い」当時の在日朝鮮人の状況、朝聯の「力量」から買わずとも使えると思い込んだらしい。それがある日、「占領軍が使用するので退去せよ」の通告を受ける。朝聯は他に事務所を探すより方途はなかった。民衆新聞社は一時期までそのままであった。

月島の事務所

 朝聯中央総本部事務所は新橋の事務所が占領軍に接収された後、月島に移転する。住所は東京都中央区月島西中通12−7であった。移転は1947年8月6日から始まり(朝聯中央時報創刊号、移舎余話)8月16日に完了した(第4回全体大会会議録)。

 建物は、内閣統計局2号館、大蔵省国有財産管理局から12月末日まで貸借契約した。そこは、勝鬨橋(東京都中央区の築地と月島を結ぶ全長246メートルの双葉跳開橋、開閉式の橋、1970年まで使用された)を渡っていく大変不便なところであったという。ある活動家は、総本部に通うための交通の便が悪いので、朝聯のトラックが毎日そこを通ったのでそれを待って便乗して勝鬨橋を渡って通勤したという。

 朝聯は「現事務所は借用期限が今年末までであり、また交通と執務に不便であるばかりか解放朝鮮の在日同胞全管為(ママ)の総本拠としては不適当であるので第11回中央委員会(1947年9月)で3000万円の予算で朝聯会館建設決議し、会館建設委員会を組織して活動」(朝聯第4回全体大会会議録、1947年10月15〜17日)を展開した。新たな移転先を模索した。資料に「朝聯会館建設に関する提案、経過報告1947年9月6日」がある。

 朝聯と在日同胞は、活動発展に沿った「わが会館」を求めて努力したのである。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2006.9.22]