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〈解放5年、同胞会館事情−下〉 朝聯事務所の変−「中央総本部会館」−

朝聯の財産没収したまま

 さて没収された朝聯の財産がどうなったのかという素朴な疑問が浮かぶ。この稿で、充分に記すことは無理だと思うが若干その経緯を追ってみる。

 朝聯は、法務総裁植田俊吉を被告として「団体規正令」乱用の旧朝聯解散行政処分取消訴訟を1949年9月27日、東京地裁に提訴した。東京地裁はこの提訴を受理し、行政第94号事件として、1949年12月21日に口頭弁論を行った。

 しかし同裁判官らは1950年1月18日、理由の説明もなんらせず「日本の裁判所に本件を裁判する裁判権がない」として訴訟を却下した。口頭弁論過程を見ると、小沢被告代理人(法務総裁の代理人)は「本訴訟自体が裁判所の裁判権に属さないということを考えておりまして」(40ページ)などと公然といっている。この提訴と弁論については、「1949年12月21日 東京地方裁判所 団体等規正令濫用による不当解散取消公判 速記録」「東京地方裁判所 団体等規正令濫用による朝聯、民青不当解散取消公判記録(第2回)」(ともに在日本朝鮮解放救援会が発行=写真)に詳しく載っている。

 訴状では、原告が在日本朝鮮人聯盟、右代表者5人、原告代理参加人などの名簿があり、訴訟代理人弁護士は布施辰治ほか21人となっている。訴状には、請求の原因があるが、そのなかに「(朝聯解散、財産接収)取消を求める事実上の主張」があり、「原告連盟の貢献した日本民主化の業績」という部分がある。

 昨今、朝鮮会館に関する裁判などで朝鮮総連の役割などが「謀略的」に言われているが、裁判の場で当時はどのように主張したのであろうか。次のとおりである。@原告朝聯が日本民主諸団体の主催した大衆運動について最も強い結集力とみごとな動員力を発揮して、これに参加した民主的貢献、A在日朝鮮人は終戦当時の朝鮮人帰国斡旋、日本交通機関混雑の整理、一部朝鮮人の日本帝国主義圧迫に対する復讐的事件の防止等、その自治的処理につき日本政府もその努力を認めて朝聯に委嘱した民主的治安維持の協力、B一部朝鮮人の生活難に余儀なくされた経済犯罪者を啓蒙して生業に導いた努力、C終戦以来日本に続発した水害震災その他の罹災者救援のため、経済的支援および医療班の派遣、慰問などに誠意を尽くした事実、D平和的、民主的、国際的文化運動の主流として新聞、雑誌、通信の発行および各種の文化事業を主催し日本民主化の文化的機運を促進した功績など枚挙にいとまがないほど記している。

講和条約発効後の裁判

 1952年4月、サンフランシスコ講和条約発効にともない、同年12月、旧朝聯と民青の財産の一部である「旧朝聯東京都本部」の建物について旧朝聯活動家金英敦らは「建物返還と不法行為による損害賠償請求」の訴訟を東京地裁に提訴した(参考資料に朝聯財産奪還委員会報告がある、6回公判まで要旨記録)。

 同裁判所は1958年3月25日に、当時日本政府が旧朝聯解散指定に伴う財産没収の行政処分は日本国憲法第29条の財産権保障の原則に違反するとして旧朝聯に対して424万円余の補償を支払うべきであるとの判決(第一審)を下した。

 ところが日本政府は不服として提訴、1961年1月30日、東京高裁は「占領軍がやったことだから日本政府に責任はない」という日本政府の主張を認めて1審判決をあっさり棄却した。朝聯を解散した当時、占領軍は朝聯側の抗議に対して「すべての責任は日本政府にある」とし責任を回避し、2審判決では「その責任とは米国占領権力にあった」と逃げる。

 「旧朝聯財産上告事件」は最高裁第3小法廷に持ち込まれたが、1965年9月8日の判決で「本件上告を棄却する」と判決を下し完全に棄却された。経緯に関しては「資料 旧在日本朝鮮人聯盟財産事件判決記録、1959年6月10日発行、在日本朝鮮人総連合会中央常任委員会」などがある。なお最高裁大法廷に関しては「判例時報」419号に「朝連事件の最高裁判決」という項目で特報を記載している。

 朝聯と在日朝鮮人が汗水で築き上げた朝聯の財産は、日本当局により1949年9月8日に没収されたまま、今日に至っているのである。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2006.11.10]