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埼玉初中 民族教育シンポジウム

「外国人学校は日本社会にも必要、守るべき財産」

 埼玉朝鮮初中級学校創立45周年記念事業の一環として、公開授業と民族教育シンポジウムが1日、同校で行われた(主催=埼玉朝鮮人教職員同盟、埼玉教職員組合、埼玉朝鮮学校を支える会)。午前中に全学年の公開授業が行われ、昼にはオモニ会から手作りのピビンパがふるまわれた。午後には同校の体育館で、約100人の同胞、日本市民の注目の中、第1回目となる教育シンポジウムが行われた。

現場の貴重な体験

埼玉初中で初めて行われた民族教育シンポジウム

 シンポジウムに先立ち同校の高石典校長は、「今年は在日朝鮮人の中等教育実施60周年と埼玉初中級学校創立45周年という意義深い年である」と語り、これからも民族性にあふれ和気あいあいとした学校、朝・日に虹のかけ橋をかける有能な人材を育てていきたいと語った。また、ブラジル人学校をはじめとする日本の外国人学校と手を携え、差別のない社会を築くために連帯を深めていこうと語った。

 シンポジウムには日本の教育の現場に携わる教員と市民活動家、弁護士、ブラジル人学校、埼玉初中の校長ら7人のパネラーが出演した。

授業を見て回る日本の参加者たち

 シンポジウムは、埼玉朝鮮学校を支える会事務局長である朝霞西高校の嶋田和彦教諭の司会で進行された。

 最初に発言した中條克俊朝霞第1中学校教諭は、朝鮮問題にかかわるようになった契機、文化祭、キムチ講習会、合同授業など埼玉初中との交流について語った。その中で教諭は、「子どもには(チョゴリ引き裂き事件など)必ず見落としては行けないテーマがある」と強調し、それを投げかけるのが教師の役目だと語った。また自虐史観うんぬんは「子どもを信じていない現われであり、子どもは事実を知りたがっている、そうしてこそ未来志向的になれる」と語った。

7人のパネラーによって貴重な体験が報告された

 次に石田貞埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団団長が、教員当時に出会った通名で通う朝鮮人生徒との出会いが朝鮮問題にかかわるきっかけであり、その後、生徒たちが文化祭での発表のために深谷の朝鮮人の聞き取り調査で体験した、エピソードについて語った。また石田団長は、民族の自覚を持つために民族の言葉の問題が持つ重要性について語り、関東大震災など地域に根付く歴史に向き合うことの大切さについても語った。

 東京都墨田区の曳船小学校の雁部桂子教諭は、東京朝鮮第5初中級学校との合同授業から見えてきたものについて発言した。雁部教諭は、荒川河川敷で関東大震災時の遺骨の試掘の見学で偶然に出会った朝鮮学校生徒との手紙の交流を通して始まった、互いの研究について語った。

 地域の歴史を知ろうと始まった聞き書きを通して、震災時、町の人たちが棒で殴ったり槍でついて朝鮮人を虐殺した事実を知り独自の教材として使い、区の情報誌に紹介したと述べた。また合同授業を通して子どもたちが互いの差別に気づくことが大事だと述べ、被差別部落の子どもたちとの交流についても語った。

 雁部教諭は、「朝鮮学校の存在自体が差別との闘争であり人権の尊重のための戦いだ」と述べ、60年間苦難を乗り越えてきたことに敬意を表した。

外国人学校と手を携え

 高校長は、2002年以降の教育交流、地域交流について語った。とくに02年の朝・日首脳会談以降、嫌がらせ、暴言、暴行事件が相次ぐ中で、学校と幼稚園に脅迫状まで送られてきた事実に触れ、数カ月間緊張が走ったと述べた。そんな中で、大砂土中学校、三郷市立早稲田中学校などとの交流を通して、お互いの歴史をよく知り交流を深めていこうと確認したと述べた。高校長は「互いの違いを認め、ともに生きる多民族共生社会を築いていこう」と語った。

 またシンポジウムでは、ゲストとして招かれた在日ブラジル人学校協会会長の吉村ジュリエタ鴻巣ブラジル人学校校長が、ブラジル人学校の厳しい現状と、これから日本の中の外国人同士がともに手を携えて差別是正のためにがんばろうと熱く語った。

 つづいて、在日コリアンの子供たちへの嫌がらせを許さない若手弁護士会の代表である松原拓郎弁護士が発言し、「外国人学校は子どもたちにも日本の社会にも必要であり、必ず守らなければならない財産だ」と語った。

 シンポでは質疑応答が行われた。会場を訪れたI女性会議の清水澄子常任顧問は、「現場で努力している教師たちの体験は大変参考になった」と述べ、「これからあらゆる子どもの教育の権利を守る、具体的な政策を考えなければならない」と語った。

 嶋田教諭はシンポをまとめながら、「若い世代がしっかり過去をみつめ新たな歴史を築こう」と述べ、自分が何者なのかをしっかり考え民族を大切にすることが重要だと語った。

 シンポは、民族教育の正当性と重要性を、日本の教師と市民活動家の豊富な経験を通して幅広く実証し、日本の市民とともに外国人学校とも手を携え、民族教育の権利拡充を目指す大きなきっかけとなった。(康太成記者)

[朝鮮新報 2006.7.11]