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〈創立50周年迎えた朝鮮大学校−上〉 民族教育の権利は国際的認識の到達点

普遍的な教育の3つの自由獲得

 本年は朝鮮大学校創立50周年の意義ある年である。私は1961年6月にこの大学に職を奉じ、そのまま40余年間在職していた。「山、高きが故に貴ふとからず」という言葉がある。その場で長いこと仕事をした、ということだけで、すべてを完全に把握しているとはいい難いことである。したがって、「そもそも朝鮮大学校は……」と大上段に振りかぶって、本学の成立とその意義を説く、ということは、私の任ではない。だが、私は大学の渉外担当者をかなりの期間やっていたので、外から見た朝大、すなわち日本人が朝大をどのように見ていたか、いわば朝大が客観的にどうゆう眼で見られていたかについて、書いてみたい、と思う。しかし、その前に、在日朝鮮人の民族教育の発生に関する問題と、この教育権死守の闘いについて触れないわけにはいかないと思う。

民族語習得

創立50周年を迎えた朝鮮大学校

 1945年8月15日、日本は敗戦し、朝鮮民族は植民地奴隷のくびきから解放された。当時、240万人の同胞が日本にいたが、多くの人々が帰国を希望し、下関、門司、博多、神戸、大阪などは、押しよせた同胞たちでごった返しとなった。

 ここで問題となったのが民族語習得である。36年間におよぶ日本の植民地統治は、朝鮮民族性の抹殺政策で、文字と言語を奪うものであり、とくに在日の子弟の被害はじん大である。各地に寺子屋まがいの国語講習会が開かれ、急場しのぎの教育が始まった。いうならば、これが在日朝鮮人の民族教育の発生であり、原点である。

 「現在われわれは、解放以後ただちに日本の学校を自発的にやめた児童のために、彼らが帰るまでの勉強を暫定的に講習会みたいな形でやったのでありますが、どうもすぐ帰れそうもないというので本格的に教育問題を採り上げ」(李珍珪『朝鮮人学校問題真相報告会記録』所収、1948年5月)た、とは当時の担当者の証言である。

 次は、この民族教育権死守の闘いについてである。世にいう、「4.24神戸・大阪朝鮮人教育闘争」のことである。

 この民族教育権死守の闘いについては、すでに優れた研究が多く発表され、浩瀚な資料集なども刊行されていて、私などの出る幕ではない。ただ、この項では、この闘争の国際的意義とその評価という点で若干の紹介をしたく思うものである。

「4.24教育闘争」

短期学部の授業風景

 1948年4月、米国を中核とする占領軍総司令部は「朝鮮人学校閉鎖令」を出し、これに反対する神戸・大阪居住朝鮮同胞の壮大な教育権死守の闘争が展開される。

 考えてもらいたい。対手は絶対的権限を持った占領軍であり、これが「非常事態宣言」を出し、その同時執行者は日本政府当局である。

 1700余人が検挙され、大阪では16歳の金太一少年がピストルで射たれ死亡した。

 1948年5月16日、東京神田教育会館でこの問題の真相報告会が行なわれた。ここでの日本人識者のこの教育闘争の意義と評価を要約すれば次の通りである。この報告会の司会をした法学者で元東大教授の平野義太郎氏は「在日朝鮮人が朝鮮語で自分達の子どもに、とくに地理と歴史という、日本の教科書では盡しえない、また誤っているから、朝鮮人が編さんした教科書で朝鮮人の先生によって、そして自己の費用で建てた学校で教育をしたいという願望から発した」ものが閉鎖命令をうけて事件が発生した、と述べた。また、作家の鹿地亘氏は「事件は朝鮮人が朝鮮人として育っていくために自分の子弟を教育する、この権利を……。朝鮮人は日本人の教育を受けにゃならぬ、これを強制することによって否定しようとしてかかった。そこに問題がある」と語った。次に弁護士の布施辰治氏は「私は……、まず第一に考えたことは、教えられる学童に対する学校施設というものが、自然国際的に一般化されて行くのではないだろうか、と同時に学校教育というものが、最終の国家の教育制度に統一せられるということが考えられる」と述べた。

 さらに歴史学者の渡部義通氏は「このような朝鮮人の自主的民族教育、民族的な文化を高める運動が自然発生的に非常に強い団結と熱意をもって行われてきたときに、一挙にしてこの民族文化の協同的な活動を弾圧しようとした」という。(以上の引用は、すべて前述の報告会記録から)

「世界人権宣言」

 「世界人権宣言」(1948年)第26条は「何人も、教育をうける権利を有する」とし、「両親は、その子供に与える教育の種類を選択する優先的な権利を有する」とした。また、国際人権A規約(1966年)の第13条(教育に対する権利)では、「個人及び団体が教育機関を設置し、及び管理する自由を妨げるものと解してはならない」と規定した。

 ここで私たちははっきり認識する。あの「自然発生的」な教育権死守の闘いは、国際的認識の到達点と一致していたことを。

 同時に、普遍的な教育の3つの自由、@学校設立の自由、A教科内容の自由、B運営の自由に合致した闘いを行動で示していたことを。(琴秉洞、朝・日近代史研究家)

[朝鮮新報 2006.9.25]