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〈創立50周年迎えた朝鮮大学校−中〉 その発生と教育権死守の闘い 日本社会空前の大闘争

日本政府の妨害

新校舎移転式に集まった人々(1959年5月)

 1955年5月の在日本朝鮮人総聯合会の結成は、在日朝鮮人の子弟教育に画期的な進化をもたらせた。同年8月、祖国訪問団に対し朝鮮民主主義人民共和国政府は、在日子弟教育に必要な費用を送る用意があると言明。そして翌年4月から、教育援助費と奨学金が送られてくることになる。

 特記すべきは、この時、朝鮮大学校建設資金として、当時3億余円(現在の価値に換算すれば数十倍)が送られたことである。これで朝大建設が現実のものとなった。

 だが、朝大建設は順調に進行したのではない。日本政府とその影響下にある一部人士の猛烈な妨害を受けたのである。その第一に、建設用地取得の件がある。当初、建設地を東京区部とし、板橋区内に5000坪の土地を確保した。これを聞きつけて大騒ぎしたのが、この地を選挙区とする自民党のN・Uという代議士である。彼は「反日、共産教育の朝鮮大学を東京に作らせてはならない」と悪質なデマで八方を説きつけて、この建設地売買をキャンセルさせたのである。キャンセルするには、約定に依り、少なからぬ違約金を払わねばならない。おそらく地主は払っていないはずだが、この違約金をN・Uはどこから捻出したか、余人は知らない。ゆえに、現在の小平の地に朝大学舎が建設を見るまでは、極秘中の極秘としてことが運ばれたという経緯がある。

 朝大を頂点とする民族教育体系に、次に妨害者として立ちはだかったのは、日本政府そのものである。

文部次官通達

学生たちは講堂と図書館を自らの手で建設した(1963年11月)

 1956年4月に設立された朝大は1966年、東京都に設置認可を申請した。これに対し文部省は1967年5月、「認可申請は受理すべきでない」と文部次官通達を出す。この時、在日同胞はもとより、広汎な日本国民、各大学や研究機関、各地方自治体などによる設置認可支援要請の勢いは凄まじいものがあった。しかし日本政府は、「外国人学校制度」法案を作成し、民族教育は「日本の利益と安全を害する」として、民族教育の生殺与奪の権を文部大臣が握るようにしようとした。これに反対する在日同胞、日本知識人の闘いはまさに歴史的といえるものである。ここで特記すべき幾人かの献身的に活動した日本人研究者、知識人の名前とお顔が浮かぶが、これは省略したい。

 この激動のなかで、1968年4月、ついに美濃部東京都知事によって、朝大は各種学校として認可された。日本政府は、あの悪名高い「外国人学校制度」法案を剱木文相をして二度も国会に上程させたが、二度とも反対世論により廃案となった。実に朝大認可をめぐる闘いは、日本社会においても絶後とは言わぬまでも空前の大闘争であった。

独立国家の権利

朝鮮大学校創設の頃(1950年代後半、東京・十条で)

 次に紹介したいのは、朝大認可前後期の日本人識者による、民族教育、または朝大に接しての感想ないし、見聞記である。それぞれ、日本の社会で優れた業績を残した人々であるので、いずれもその文は起承転結のはっきりした名文ぞろいであるが、紙数の関係もあって、全員の紹介はむつかしく、また引用も断片的にならざるをえなかったことを、あらかじめご了承願う次第である。

 「日本は明治の初めから近代国家をたてるために、朝鮮の国民にもご迷惑をかけ、われわれにも大きな禍根を残したという悲惨な歴史をわれわれは負わされている」(南原繁、元東大総長)

 「外国に居住する独立国家の国民が、民族教育をおこなうのは当然の権利である。これは理論的になんら疑問の余地がない。それができないのはひとえに政治的理由からである」(谷川徹三、元法政大学総長)

 「人間が人間として生きていくためには、民族をはなれては考えられない。したがって在日朝鮮人の民族教育を認めないことは、日本人に日本民族として生きていくことを認めないことになる。しかし、このような認識が日本国民の間には不足している」(上原専禄、元一橋大学学長)

 「かつてネールは、英国がインド人にたいして犯した最大の罪悪はインド人の魂を奪おうとしたことだと云ったことがあるが、日本軍国主義が朝鮮人にたいして犯した罪は、まさにかれらから民族の言葉と文字を奪い、民族文化そのものを抹殺し、民族の魂までも奪おうとしたことである」(北山康夫、元大阪学芸大学学長)

 「在日朝鮮人の民族教育の権利が保障されるべきことは、日本国憲法の精神からも、世界人権宣言の趣旨からも、さらには国際的な諸慣行からしても、極めて当然のことであって、いまさら論議の余地もないほどである」(黒田了一、大阪市立大学教授)。

 ここでの日本知識人からの引用は、『朝鮮大学校をみて』(1967年刊。職責は当時のままである)のものである。

 それにしても、朝大認可前後期の日本人知識人の認可にかけた熱意と期待の大きかったことが、ひしひしと実感できる文章である。(琴秉洞、朝・日現代史研究者)

[朝鮮新報 2006.10.13]