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〈創立50周年迎えた朝鮮大学校−下〉 美濃部亮吉先生を想う

強圧的横やりに屈せず朝大認可

 朝大の歴史にとって画期をなす第一は、朝大創設そのものであり、第二に朝大の認可である。この項では、朝大の認可にふみ切った当時の東京都知事・美濃部亮吉先生のことを主に触れたい。

革新旋風の中で

美濃部亮吉氏

 美濃部先生の尊父は、昭和史の中でも有名な「天皇機関説」の東大教授・美濃部達吉氏である。学者の家系に生れ育った美濃部先生自身も、経済学者として東京教育大学で教鞭をとっておられたが、折からの革新風の高まりのなかで、社会党、共産党の革新統一候補として東京都知事に選挙され、3期12年間、その職責を全うされた。

 すべては人間社会の出来事、どう転んでも長期間重職に在れば、その功罪、是非は人の口の端にのぼるは必定。美濃部先生といえどもその例から免れることはできないであろうが、在日朝鮮人にとっての美濃部先生の存在は、朝大認可というこの一事によって永く永く記憶されるべきであろう。

 この問題について美濃部先生自身の書いた文章がある。

 「都知事になって間もない昭和四二年の五月のことであった。岩波書店で、雑誌『世界』の編集をしていた安江良介君を無理に特別秘書にお願いして、革新都政の出発に際して、起ってきた数々の難問題に対処してもらっていた。その安江君から朝鮮大学校の認可の問題が前知事以来タナざらしの状態にあり、都側はなかなか認可しそうもない。この問題は、早急に決着をつけなければならないと思われる、ということを告げられた」(「朝鮮大学校創立25周年を記念して」)とある。

安江良介氏

 以後、美濃部知事は、自民党政府の強圧的横やりや、文部省の「文部大臣の指揮権で阻止する」とか、また右翼団体の反対、民団の抗議などの圧力に屈せず、朝鮮大学校の設置を認可するのである。

 やや間を置いて美濃部知事一行の朝大訪問があった。夫人同伴である。大学挙げての熱烈歓迎であるのは論をまたない。

 私は図書館での展示準備と案内を受けもたされた。知事夫妻がとくに興味を示したのは、木版で大型の朝鮮古版本であった。その書籍展示物の最後の方に、美濃部先生の経済関係の本2冊をならべて置いていた。図書館内くまなく探してもこの2冊しかなかったのである。お伴の人に自著の置かれているのを知らされた時、美濃部先生が少年のような羞じらいの色を見せたのが印象的であった。

 その後、都知事一行の平壌訪問などもあり、この面からも日本社会に大きな話題を提供したことも記憶に新しい。

寛容な心で

 美濃部都政の3期12年間は、平和憲法を都政に生かし、都民との対話と福祉を重視する政策で一貫したといえる。

 美濃部先生は1979年4月、都知事を退任し、政党ではなく市民グループに推されて80年6月、参議院議員(全国区6年制)に当選した。

朝鮮大学校を訪問した美濃部都知事。後方に夫人

 この時期、私は朝大の渉外担当者として、しばしば、国会の議員室、または渋谷南平台の自宅を訪れた。朝大で「朝鮮大学校創立25周年を記念して」という文集を出すことになり、美濃部先生には、朝大認可の経緯を書いてもらうよう、私に任がきた。その原稿をいただき、本もでき上がったので、その本を先生のもとに持参した。私は編集には関わっていなかったので、内容はまだ読んでいなかった。先生はページを開き、ご自分の文に眼を通された。しかし、すぐ「アッ」と小さく息をのんだのである。私は直ちにまちがいがあったと察した。しかし先生はそれよりは何事もなかったようにふるまわれ「ご苦労さまです」といわれた。

 私は帰りの電車に乗るや否や先生の文を読みはじめ、「アッ」と声を出した。先に引用した先生の文で、安江良介氏の名が3回出ているが、3回とも「安井」となっていたのである。私は顔中から汗の吹き出る思いであった。「なぜ先生は私に一言もいわなかったのか」。結局、美濃部先生の心の寛さを示すものとなった。私には先生の不言の姿が長く謎として残った。


 ある時、私は何かの用で参議院の美濃部先生の部屋をたずねた。部屋に入るとそこは秘書室で、夫人もここで秘書の仕事をされていた。隣の部屋が議員室である。美濃部先生の部屋は、左側に大きな机を置いて、そこで執務をし、右側は応接室で、長いソファなどを置き客を応対する。入ってきた私を見て、夫人はとなりの部屋の先生に私のきたことを告げた。私は一礼して戸を開け、先生の部屋に入りながら先生の方を見た。その時、先生が執務机からサッと勢いのある姿で立ち上がったのが見えた。「あ、先生、10年は大丈夫だな」、これがその時の私の正直な思いである。

 その3日後のことである。私は新宿で知人と話を交していたが、テレビが何と美濃部先生の死を報じているではないか。享年、満80歳という。この日は1984年12月24日である。通夜や葬儀には学長が参加した。年が明けて何日かの後、私は遺影に焼香のため南平台をたずねた。友人P氏も一緒であった。焼香をすませ、夫人としばらく話を交した。その時夫人は「美濃部が亡くなった場所を見ますか」といわれ、2階の書斎に案内された。

 「この机で新聞をスクラップしていて、そのまま机にうつ伏して亡くなっていました」。私は何もいえず、つっ立ったまま、しばらくその場を動けなかった。「これは壮烈な戦死ではないか」、頭の中はこの想念で一杯だった。

 人の死と関連して不謹慎ないい方になるのをご海容いただきたい。「死はかくありたいものだ」、率直な私の感想である。

 美濃部亮吉先生、生前の数々の無礼をお許し下さい。合掌。(琴秉洞、朝・日近代史研究者)

[朝鮮新報 2006.10.30]