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「朝鮮大学校の50年の歩みと未来」(中) 各界で活躍する人材輩出

「学びの殿堂」

 1959年6月13日、ここ小平の地に念願の新校舎が無事完成し、本学の新しい一歩が踏み出されることになりました。

 この日を境に本学は高等教育機関としての体裁を整え、その教育内容を時代の趨勢に合わせて進化、向上させることが可能となり、名実共に在日朝鮮人にとっての「学びの殿堂」へと変貌していきました。

 本学の歩みをふり返るうえではまた、68年4月に東京都から各種学校としての認可を得るまでの過程にあった出来事も決して忘れることができません。

 当時の状況をいうならば、1965年の「日韓条約」の締結を機に、朝鮮学校に対する規制の強化を狙ったいわゆる「外国人学校法案」の制定が目指され、在日朝鮮人の民族教育自体が存続の危機にさらされておりました。

 そのような中で、その最高学府としての本学が正式に認可を受けることは、社会的に極めて重要な意味を持っていました。

 それは正義と人権を守る戦いの象徴として、われわれ朝鮮人の問題であると同時に、すぐれて日本人の問題であり、また在日外国人すべての問題でもありました。

 ゆえにこの問題に対する日本社会および国際社会の関心と反応は予想を超えたものとなり、認可を求める声は国や民族の枠組みを超えた大きなうねりとなってわれわれの運動を力強く後押ししてくれました。

 日本においては1966年に179人の学者が発起人となって本学の認可を求める署名運動が展開され、日本の著名な大学の総長、学長を含む1万3千余人の学者、文化人が本学の認可の必要性を強くアピールしました。

 また、1968年には都内において80を越える政党および社会団体が集会を開いて認可の実現を訴えるとともに、全国の500を超える大学や社会団体、および東京都議会をはじめとする256の各自治体が認可を求める決議や声明を採択、発表するに至りました。

 海外からも米国、キューバ、ハンガリー、ペルーをはじめとする各国の大学と国際団体が認可を求める要請文と連帯の手紙を送ってきました。

 これらの盛り上がりを背景に、ついに1968年4月、当時の美濃部亮吉東京都知事は本学を正式に各種学校として認可し、ここに本学は日本における教育機関としての合法的地位を確立することができました。

 それは本学の教育にとって、先に見た新校舎の建設、移転に次ぐ第2のターニングポイントとして、本学と日本社会との結びつきを強めるとともに、お互いの交流をよりいっそう深めていく重要な契機となりました。

同胞社会を支える

 おかげさまで本学は、創立以来こんにちまで1万4千人を超える卒業生を輩出してまいりました。

 彼らは各地にある朝鮮学校の教員をはじめとする在日朝鮮人社会の担い手として、あるいはさまざまな分野の研究者や企業家として、また質の高い芸術家やスポーツ選手として各方面で活躍し、同胞コミュニティーの維持、発展に寄与しております。

 また、その多くが民族学校に学ぶ子どもたちの熱心な保護者、協賛者として今日の在日朝鮮人社会を力強く支えています。

 日本で生まれ育った4世、5世の子どもたちが民族的な自覚を持ち、言葉や文化のみならず、先に見たような自己存在の歴史的な意味と、果たすべき役割をしっかりと受け継いでいる、世界にも類を見ないこのような在日朝鮮人の海外居住の実践は、本学卒業生の存在と活躍なしには語ることができません。

 本学で学んだ卒業生の中には、祖国の平和統一に対する熱意と、専門分野における知識や技能を基に、北南のさまざまな交流の架け橋になるなど、オリジナリティーに溢れる活動を通じて民族の繁栄に尽力してきた者も数多く存在します。

 また、日本や海外の多くの大学の大学院に進学した卒業生は、自然科学および社会科学のさまざまな分野における有能な研究者としてその能力を発揮することによって、日本と世界の科学的発展に貢献しております。

 そればかりではなく、サッカーJリーグやプロボクシングなど日本のスポーツ界や、さまざまなメディアおよび芸術分野で活躍する人材も多数おり、それらの世界に新しい刺激と活力を与えています。

 そして、多くの卒業生が国際的な視野と語学力を兼ね備えたバイタリティー溢れる企業家、経済人として日本社会のいたる所で活躍しており、国際化に向かって変革を遂げつつある日本の社会や経済にプラスの影響を与えております。

 このように本学は、在日朝鮮人社会はもちろん朝鮮半島と日本、そして国際社会で活躍する有能な人材を育てることで、本学を応援し、支えてくださる皆さまの期待に答え、その使命を全うすることに全力を尽くしてまいりました。(朝大助教授 慎栄根)

[朝鮮新報 2006.12.19]