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〈朝鮮の被爆者〜告発(上)〉 長崎で被爆 シン・ペグンさん(70)

 【平壌発=李相英記者】「反核平和を求める朝鮮原子爆弾被害者協会」(1995年2月設立)は今年3月の総会で、被爆者問題の解決に向け、日本政府に法的、道徳的義務の履行を促す活動を本格的に展開する立場を明らかにした。総会の決定に沿って4月30日に「朝鮮被爆者問題に関連する調査報告書」が発表された。被爆者らは謝罪と補償、迅速な治療対策を講ずるよう日本に求めている。朝鮮に在住する被爆者に話を聞いた。

いまも後遺症に苦しむ

 45年、敗戦間近の大阪は毎日のように米軍の空襲を浴びていた。空襲から逃れるため家族と共に長崎に疎開した。故郷の済州道に最も近かったからで、父や多くの朝鮮人が徴用された場所で土地勘もあった。

 父と共に船で長崎に着いたのは8月8日。翌日、埠頭の倉庫にいたところ、外から「ブン」という音が聞こえてきた。大きな爆弾が落ちたのだろうとは思ったが、当時は原爆の存在など知らなかった。父はじっとしているように私に言い残して爆心地へと向かったが、好奇心から私も父のあとを追った。私たちのいた埠頭は爆弾が投下された場所から6キロしか離れていなかったが、山を間に挟んでいたので熱風被害はなかった。

 市中心部のいたるところに死体が放置されていた。倒壊した建物から人々が死体を引きずり出す場面も目撃した。光と熱風の被害は直接受けなかったものの、その後、爆心地に数日間いたせいで放射能を浴びたようだ。

 3日後、船で大阪に戻った。そして祖国が解放された。その時点では被爆の症状は表れなかった。

 60年代に大阪朝高、中大阪初中などで教員を務めたあと、71年に帰国した。

 帰国後、病院で診察を受けたところ、心臓が本来あるべき位置より下に位置していることがわかった。呼吸気管の障害のせいで下垂したようだが、はっきりした原因は医者もわからなかった。血圧もいきなり上がったり下がったり不安定な状態が続いた。

 最近も仕事中頭がくらくらすることがある。同僚は心配して家に早く戻って休めと言ってくれるが、私はたとえ死ぬことがあっても毎日出勤することにしている。

 朝鮮原子爆弾被害者協会が設立されるまでは、自分が被爆者であることを家族以外の誰にも話したことはない。何の得にもならないと思ったからだ。とくに子供たちの将来を考えると言えなかった。

 父は被爆の後遺症で59年に亡くなったが、死ぬまで被爆のことはいっさい口にしなかった。

 妻も広島で被爆した。結婚して6人の子どもをもうけたが、若い頃から関節と血圧の疾病で苦しみ続け、4年前に他界した。

 娘も心臓に障害を抱えているため、子どもは一人しか持てなかった。その孫も心臓が弱い。被爆の後遺症は本人だけでは終わらずに、こうして子、孫へと遺伝している。

 日本政府は一日も早く朝鮮にいる被爆者が安全に治療を受けられるように対策を立て、必要な医療設備も提供すべきだ。同時に私たちが受けた精神的苦痛に対する補償もしなければならない。

※1936年大阪生まれ

 9歳のとき長崎で被爆

 71年に帰国

 平壌市東大院区域在住

 国土環境省国土計画研究所室長

[朝鮮新報 2006.5.20]