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〈朝鮮の被爆者〜告発(下)〉 広島で被爆 キム・ミョンエさん(62)

 【平壌発=李相英記者】生後間もなく岡山から広島県福山市に移り住んだ。

 当時は食糧事情が厳しいうえに私たち家族は朝鮮人だという理由で、少ない配給すら満足にもらえなかった。一緒に住んでいた叔母が、何日かに一度広島市に住む友人から米や生活必需品を仕入れていた。そのたびに叔母は私を背中におぶって行った。米を隠すための偽装だった。

 広島に原爆が投下された1945年8月6日も叔母は広島市の友人宅を訪ねた。原爆が落ちたとも知らず、いつもと同じように私をおぶって行った。

 叔母によると、市内には死体があちこちに転がり、街や建物が跡形もなく消えていたという。結局叔母は友人を見つけられずに3日間さまよったあげく、自宅にたどり着いた。私が1歳のときだ。

 その後、被爆の症状が少しずつ表れはじめた。小学生の頃は鼻血がとまらずにしょっちゅう医者に通った。一見健康そうでも、放射能の影響で腎臓や泌尿器系の障害による病気を患っていたらしい。効果的な治療法もなかった。

 当時はまだ「原爆医療法」(57年)が制定されて日が浅かったため、被爆者の登録申請に関する手続きはきちんと伝えられていなかった。在日朝鮮人の間でも被爆者登録を積極的に行うような雰囲気はなかった。朝鮮人差別のひどさを考えて、被爆者であることを名乗り出ることをためらう人もいた。

 帰国が可能になったあとは、被爆者登録をせずに帰国する人や「被爆者手帳」を破棄する人もいた。私も登録しないまま帰国した。

 子どもは3人もうけたが、4年前に長女をなくした。幼い頃から原因不明の貧血と、心臓疾患に苦しんだ。だが、病院での診察結果はいつも「異常なし」だった。

 帰国者以外に朝鮮に被爆者はおらず、治療経験もなかったため、被爆による後遺症はなかなかわかりにくかったのだろう。

 長女は32歳のときに白血病だと診断された。死ぬ2カ月前だった。自分のせいで娘が死ぬのかと思うと、自分が被爆者であることをどうしても打ち明けられなかった。死と向き合う娘を見ながら、自分を責めるしかなかった。

 次女と長男も心臓、腎臓に障害を抱えている。

 日本では57年以降、被爆者を援護する法が制定されたが、朝鮮で暮らす被爆者には適用されていない。国交が正常化されていないためだ。日本政府は無責任だ。植民地支配の結果として被爆した朝鮮人にいまだに補償しない。

 被爆1世はもちろん、2、3世も引き続き治療を受けられるようにすべきだ。

※1944年岡山県生まれ

 1歳のとき広島で被爆

 60年に帰国

 平壌市牡丹峰区域在住

[朝鮮新報 2006.5.24]