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〈金英男さん、平壌記者会見@〉 「私からめぐみにプロポーズ」 出会いは日本語学ぶため

 日本人拉致被害者横田めぐみさんの夫だった金英男氏の記者会見が6日、平壌で行われた。約2時間に渡って行われた会見の最後には、横田めぐみさんとの娘、キム・ウンギョン(ヘギョン)さんも参加。金氏は日本にいる横田めぐみさんの両親にあいさつを伝えながら、今後平壌にくる機会をみつけてヘギョンさんにも会ってほしいと語った。日本記者団との記者会見の詳細を4回にわたって紹介する。

 私は横田めぐみの夫の金英男です。6月末に金剛山で母と姉に28年ぶりに再会した。まだその感激と興奮がさめやらぬ状態で記者のみなさんと同席することになった。私に関する話があれこれと正しく伝えられておらず、またそれについてさまざまな憶測が飛び交っているようなので、もう少し事実通りに伝えるつもりでこの席に来た。

 Q 横田めぐみさんとの出会い、結婚に至る経緯、それ以降の生活について話してほしい。

 A 私が初めてめぐみに会ったのは仕事上日本語を学ぶためだった。たいへんかわいらしく、とてもおとなしい人というのが第一印象だった。その次から日本語を学び始めたが、その過程で彼女の性格を知るようになった。とても情があり、か弱い女性との感じを受けた。日本語を習う必要性から出会ったが、私も彼女も若かった。めぐみは22歳だったと思う。日本語を習う一方で人間的に近くなるためにいろんな場所へ散策にも行った。日本語半分、恋愛半分のような形になった。それが6カ月ほど続いただろうか。

 いざ彼女と結婚しようと決心する段になって相当深刻に考えねばならないことを自覚した。その自覚はおそらく私が朝鮮人であり、めぐみが日本人だったことから来ている。当時、私は外国人との結婚に躊躇していた。しかし一方では彼女と付き合う過程で、めぐみだけは私が責任を持たねばならないという、男としての責任感が強く働いた。とくに互いに独り身なので、そのような境遇の人が一緒になり情を分かち合えばうまくやっていけるだろうと思った。それでめぐみに「結婚して、一緒に暮らそう」とプロポーズした。彼女は喜んで同意した。86年8月に私たちは結婚した。

 結婚後の生活については、若い男女、新婚夫婦の生活は記者のみなさんも経験したと思うが、それと変わりない。互いに頼り思いやりながら、うまくいっていたと、私は自負している。めぐみは日本で暮らしていたので日本の風習をよく知っており、私も南朝鮮で暮らしていたので息はピッタリだった。祝日や新年を迎える際には、家庭的な雰囲気作りに努めた。結婚後、初めての新年を迎えた時のこと。夜12時になると同時にめぐみが商店へ行き赤ワインを一本買ってきた。部屋のあかりを全部消し、ろうそくの火だけでワインを飲んだことを今でも覚えている。めぐみが自分の知るかぎりの日本料理をまごころ込めて作ってくれたことを覚えている。

 めぐみは家族の話もしたが、父親が銀行に勤めていること、自分が幼かったときに友人に弟がいるのがうらやましくて母親に弟を生んでくれとねだったこと、それで生まれたのが双子の弟だったと話していた。

 その過程でヘギョンが生まれた。ヘギョンの誕生は女性としての喜びを彼女に与えた。彼女はあらゆる真心をヘギョンに注いだ。

 そのような幸福な暮らしが3年ほど続いたが、その後めぐみに病気の症状が少しずつ出始めた。はじめは一般的な治療を行ってきた。ところが治療がうまくいかず、良くなったり悪くなったりを繰り返した。入院し、あらゆる治療方法を試みたが、めぐみの病状は好転せず、結局専門病院に送らざるをえなかった。

 Q 横田めぐみさんから日本語を学んだと言うが、結婚生活の過程で日本語を使うことがあったのか。また今は日本語をどの程度理解できるのか。

 A 私が日本語を習った時に驚いたことが一つある。めぐみがとても流ちょうに朝鮮語を話したことだ。外国人が外国語を話すときの欠点とされる発音上の違いがまったくなかった。本当にこの人は外国人なのかと感じたほどだ。表現法もよく知っており、朝鮮人の中で話をさせても区別がつかないほど上手だった。

 はじめは私が日本語を習わなければならない必要性から、できるだけ日本語を使っていたが、恋愛中はもどかしくなって主に朝鮮語で会話した。そのせいもあって、日本語はあまり習得できなかった。

 結婚後も、私が多少せっかちなこともあって意識的に日本語を使用するより口から先に出る朝鮮語を使うことが多かった。めぐみが亡くなったあとは、私自身がめぐみのつらい記憶を思い出すのがいたたまれず、できるだけ日本語を使わなかった。

 Q めぐみさんから初めて拉致された事実を聞いたのはいつで、どのように拉致されたと聞いたか。

 A 特殊部門に服務する私たちには、誰に強要されるわけでなく自覚して守ることがひとつある。それは相手の過去やいきさつについて尋ねることも、知ろうともしないことだ。だから(めぐみが)具体的にいつ来たのか、どのようにして来たのか、私が自ら尋ねることもなかったし、彼女もあえてそれを語ろうとしなかったので、それは話題にならなかった。

 Q 結婚後、どこで生活したのか。

 A 特殊部門で一般に使用する地区だ。具体的には大陽里(平壌市順安区域大陽里)だ。

 Q 大陽里で日本人拉致被害者蓮池さん、地村さんと交流はあったのか。

 A この地区に外国人がいたのは事実で、蓮池さんや地村さん夫妻と交流があったのも事実だ。しかし彼らは自分が拉致されたことは話さなかったし、私が尋ねることもなかったのでただ人間的な交流が行われた。 

[朝鮮新報 2006.7.28]