〈金英男さん、平壌記者会見A〉 「遺骨偽物、納得できない」 |
Q 横田めぐみさんの遺骸を五鳳山の火葬場で火葬したのはいつか。また先日金剛山で姉に会った際、めぐみさんの遺骨に他人のものが混ざったかもしれないと言ったと報道されたがそれは事実なのか。 A めぐみの死後、遺骨を火葬する決心をしたのは1997年だ。それは職業上、めぐみが安置されているところへしばしば行くこともできず、またその頃、ヘギョンに新しい母親を迎えねばならない状態にあったからだ(編集部注−97年に現在の婦人パク・チュンファ氏と再婚、その後生まれた息子チョルボンくんは現在8歳)。それが97年の4月以前だったと思う。金剛山で姉に言ったのは、そのような意図で言ったわけではない。めぐみの遺骨は私が保管していたが、彼女を思い出すたびに時々それを開けて見ることもあった。最初に火葬されて遺骨で戻ってきたとき触って見たこともあり、つらい気持ちを慰めようと触れたこともあるが、遺骨がすり替わった、あるいは偽物だというのはまったく想像を越えており、納得できない。 私が04年11月に日本政府代表団団長として来た薮中氏(編集部注−当時の藪中三十二外務省アジア大洋州局長)に会い、今みなさんに申し上げた内容を具体的かつ詳細に説明した。薮中氏から私に日本にいるめぐみの両親がめぐみが死亡したのならその遺骨でも送ってもらえないかと言っているので、自分が帰るとき持って行けるようにしてくれと切実に要請された。 彼がたびたび要請するので、私はその問題だけはめぐみのご両親に会ってめぐみがここで生活し、死亡した具体的な内容を申し上げ、ご両親の理解を得てから私がお伝えするので、その問題はこれ以上要請しないでほしいと言って別れた。そのとき薮中氏は私に、日本の風習に遺骨を分けて保管する(分骨)風習がある、それでもできるよう助けてほしいと要請した。彼と別れたあと、宿所に帰りいろいろ考えた。 考えたすえに、私はめぐみの遺骨が永遠に異国でさまようよりは、両親の元で安らかに眠る方が良いと思い、決心して再び薮中氏に会った。私は彼に、本来ならば遺骨は自分が直接両親に渡さなければならないものだが、あなたに遺骨を渡す、しかしこの問題はプライバシーにかかわる問題なので直接両親に渡してほしいとまず言った。そしてこの問題を公開しないでほしい、私から渡されたこと、これを確認してほしいと言った。彼は私から直接めぐみの遺骨を預かったこと、直接両親に渡すこと、これを絶対に公開しないことを自筆で記し、「私をどうか信じてほしい」「自分がうまくやる」と言った。しかし薮中氏が日本に帰り実際にやったことを見ると、私から聞いたこと(めぐみとの出会い、生活)は無視されて、(日本に)帰ると同時に遺骨を鑑定するといって大学、研究所などに分け、結局は遺骨は「偽物」だと主張した。 (記者らに実物を見せながら)これがそのとき薮中氏が直接書いた確認書だ。 私としては最大限の誠意と気持ちを示したにもかかわらず、日本でなぜ私の問題をもって複雑にもてあそび、苦しめるのか。正直残念だ。 Q めぐみさんの入院について知りたい。最初に入院したところはどこか。 A めぐみは何度も入院した。わが部門の病院には、結婚前から何度か入院したと聞いている。 Q 新義州の病院に入院したことはあったのか。 A なぜそのような質問が出るのか理解できる。めぐみが病院へ行くとき、初めは新義州病院に行くことになっていた。しかし距離も遠く、平壌にもそのような病院があると言うので、平壌の病院に入院させた。新義州病院へ行ったことはない。 Q めぐみさんが精神的に不安定な状態に陥った原因を何だと考えるか。 A 人が病むときにその原因が何かというのは、それぞれ異なると思う。必ず原因があって病むのかはよくわからない。 A 結婚生活の過程でめぐみは頭が痛いと言っていた。それで私がなぜしょっちゅう頭が痛むのか、体が弱いせいなのかと聞いた。すると彼女は、幼いとき一度頭をけがしたことがある、もしかするとそのためかもしれないと話した。私は「時間が経っているのにそのときのけがが今になって痛むのか」と言って、それ以上は深く考えなかった。それが交通事故だったのか、あるいは別の事故であったのかは思い出せない。 Q めぐみさんの死亡を、いつどうやって知ったのか。 A めぐみは私の初恋の相手で私の妻になった女性だ。めぐみを入院させてから病院へは2度ぐらい行ったが、そのつどめぐみは回復しているように見えた。ところがある日、部門の人がきて私に「車に乗りなさい」「一緒に行こう」と言った。私は普段どおりに車に乗った。車内でその人はめぐみが亡くなったと言った。彼の言葉を信じることができなかった。最近まで元気だったのになぜそんなことが起きるのか、自分の目で確かめねばならないと思い、その人と一緒に病院へ行った。行ってみると確かににめぐみだった。それからどうしたかよく覚えていない。正直つらい過去を思い出すのは本当に苦しい。私はそのとき「ばかなことをした。このようにしなくてもいくらでもほかに良い方法があったのに」と思った。今になって考えると、私がもう少しちゃんと世話してあげていればこのようにならなかったという自責の念がある。 Q 死亡を通報された病院の名前は。 A 平壌市49号病院だ。 Q めぐみさんが死亡した日付はいつなのか。 A この問題についてひとこと申し上げたい。 めぐみが死亡した日付は94年4月13日だ。 めぐみのご両親に初めて手紙を送るとき、私は正気でなかったし、急いで書いたので死亡日付をまちがえた。それで藪中氏に会った際、死亡日を訂正した。 [朝鮮新報 2006.7.31] |