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京都 高麗美術館研究講座 仲尾宏 京都造形芸術大学客員教授が講演 朝鮮との国交回復、平和外交を軸に

「朝鮮通信使」来聘400年に向けて

仲尾さんの講演に熱心に聞き入る参加者

 京都市の高麗美術館研究所の主催で、今年から来年にかけて「朝鮮通信使」をテーマに研究講座(8回)が開かれる。5月26日、その第一回講座「国交回復と第1回回答兼刷還使」が京都市下京区にある仏教大学四条センターで開かれ、仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授が講演した。

 仲尾さんは講演の冒頭、来年07年は朝鮮通信使の来日400年となる意義深い年であると指摘しながら、「この研究講座が当時の日朝交流をふり返り、朝鮮半島と日本の現在、未来に向けての善隣友好のあり方について考えるよい機会になることを願う」と述べた。

 「通信使」とは、「信−よしみ」を「通−かよわす」「使い」という意味。豊臣秀吉の無謀な朝鮮侵略は、李舜臣将軍をはじめとする朝鮮軍や民衆の果敢な抵抗によって敗北したが、その戦争によって歴史のきずなが断たれたのではなかった。1607年から1811年におよぶ12回の朝鮮通信使の日本来聘は、日本と朝鮮の友好往来に画期的な成果をもたらした。

仲尾宏客員教授

 同氏は、通信使は日朝両国の間に不戦と対等な外交関係を築こうとした外交使節であったと指摘したうえで次のように述べた。

 「秀吉の侵略によって、平壌やソウルは壊滅的被害を受け、朝鮮農村は荒廃し、人口は減少、餓死者が続出した。そのため、『白骨街道』と呼ばれたところもあった。侵略軍は、非戦闘員を含む数万、数十万人もの朝鮮の老若男女を殺し、死体の鼻を削ぎ、戦利品として日本に送った。いまでも京都に耳塚として残っている。さらに多くの人々が日本に拉致され、ポルトガル商人の手により奴隷としてヨーロッパにも売られていった。だから最初の3回は、日本の徳川政権の戦後の姿勢を問う『刷還使』(送還使)であり、日本に連れ去られた朝鮮人俘虜の返還が主たる目的だった」

 また、同氏は05年京都の伏見城で、朝鮮王朝によって日本に派遣された「探賊使」松雲大師惟政と会見した徳川家康が語った言葉について説明した。「致家康曰、我於壬辰在関東、不曽干預兵事。朝鮮与我実無讐怨、請与通和、…」(私=家康の軍隊は朝鮮に一兵たりとも出していない。私と朝鮮には何の復讐や怨みもない。ですから国交の回復を望みます)。

 天下を手にした家康は朝鮮との国交回復と平和外交が不可欠だと考えた。そして、対馬の努力により朝鮮人俘虜の送還や王陵を暴いた犯人の縛送、そして謝罪国書の送達などの条件をクリアして、国交の回復に努力して、実現した。

朝鮮通信使行列図巻(高麗美術館蔵)

 そののち徳川幕府からの招聘を受ける形で訪日することになっても、通信使の役目は日本情勢の探索と南方への安定策の構築が主目的であった。しかし、その使節団は国王の書簡を携えて互いに「信−よしみ」を交わすだけではなかった。当初から、使節の主要な地位にあった人々は厳しい科挙に合格した朝鮮国最高の知識人をより連ねており、学者ばかりでなく、医師や画家、能書家、また、中国語に通じた漢通事もいた。その結果として「東方小中華之国」の薫り高い文物、文化が近世日本にもたらされ、日本の人々にいろいろな分野にわたって大きな文化的刺激をもたらした。

 同氏は、朝鮮通信使がもたらしたおびただしい文化遺産について次のように語った。

 「それらは今まで発見されているだけでも数百点にも及び、未発見、未調査のものを併せるとその数量と質はぼう大かつ深いものになる。絵画、絵図、墨跡、彫刻、無形文化財、民俗、文書、建造物とその遺跡、郷土玩具やほかの用具、衣装などその範囲はとても広い。そしてその文化遺産は幕府や各藩の役人や学者、僧侶などの知識人が直接の受け手であり、伝達者であっただけでなく、民衆もまた強烈な刺激を得て、さまざまな朝鮮文化を受容し、またわが町、わが村に伝えていた。通信使訪日400年の節目である07年に向けてそれらの文化遺産に触れてみることの意義はとても大きい」

 仲尾さんは、現代にも平和外交を原点に据えた江戸時代の通信使の精神を見直すことが必要だと指摘しながら講演後、本紙記者にこう述べた。

 「現在日朝間には過去を清算し、新しい未来を開くという重い課題がある。しかし、両者の戦争の加害と被害の立場は変えられない。02年、両首脳によって合意された平壌宣言には、過去の植民地支配に対する日本側の公式謝罪と経済協力が明記されている。これをスタート台にして、国交正常化を計るべきで、拉致問題ばかりを取り上げてメディアが先導する感情的な反応ばかりでは、真の解決は困難になるばかりである。来年の朝鮮通信使来聘400年に向けて、当時の知恵に学び、日朝間の草の根友好ムードを作っていきたいと思う」(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2006.6.3]