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考察−朝鮮戦争と日本〈上〉

 全土がはかりしれない惨禍をこうむった朝鮮戦争が勃発して今年は56年目に当たる。3年余にわたる朝鮮戦争は、日本の戦後歴史でどのような意味をもつのであろうか。

米軍に全面協力

 米軍による合計35.5億ドルの朝鮮特需は、敗戦で荒廃した日本経済が息を吹きかえす決定的な契機となった。

 朝鮮戦争の期間を通じて日本経済は戦前水準に達し、1956年には「もはや戦後ではない」と宣言するに至った。60年代から始まる日本の高度経済成長はこの時期に準備された。

 数次の吉田内閣による親米路線のもとで保守合同が進められ、対米追従の長期保守政権が実現する、いわゆる55年体制の土台が確立するのもこの時期であった。

 軍事的にも大きな変化があった。平和憲法が施行されてわずか3年後に日本の4つの島は米軍の出撃基地、補給基地として全面的に機能し、多くの日本船員、鉄道関係者、旧軍人は軍事輸送や機雷除去などに動員され朝鮮戦争に直接参加した。

 治安維持の名の下にGHQの命令によって警察予備隊が組織されたのも、朝鮮に対する米軍の侵略が本格化する時期である。こんにち自衛隊は世界第2位の5兆円レベルの軍事費によって強化され、重装備でイラクに海外派兵されるまでになったが、警察予備隊の創設は日本の軍事力が再びよみがえったことを意味した。

 吉田首相は朝鮮戦争を追風とした日本のこのような政治、経済、軍事的な復活を「神風」として喜び、米軍の朝鮮侵略に全面協力することを国会で言明した。

 平和憲法下にあるはずの日本のこのような状況は、朝鮮人の側から見れば、40年間の朝鮮支配に対する一言の謝罪も反省もなしに米軍の朝鮮侵略に積極加担したものとして映る。

南で住民大虐殺

 いま南朝鮮では老斤里事件をはじめ各地での米軍による大量住民虐殺が明らかになって米軍の責任が追及され、「朝鮮戦争の英雄」とされてきたマッカーサーの銅像を撤去する運動が広がっている。

 戦争開始は「北の侵略から南朝鮮を守るため」としてきた米軍の大義名分は崩れ、朝鮮戦争勃発の原因が根本的に見直されている。

 しかし、日本では依然として朝鮮戦争は「北朝鮮による挑発」として高校歴史教科書で教えられ、一部の国際政治学者や革新を標榜する政党までも米国の言い分をそのまま繰り返している。

 これは、現在なおも世界のいたる地域で「テロとの戦い」の名のもとに戦争を拡大している米国の危険な行動をおおいかくし正当化するのに役立っている。

 朝鮮戦争は戦後日本の進路を決定づけた事件であり、その真相を明らかにすることは、今後の朝・日関係を考えるうえでも重要な今日的意義をもっている。

49年から戦闘が

 戦争の発生には政治、経済、軍事的な原因があるのであり「誰が最初の一発をうったか」式の単純な分析で論じられるものではない。

 朝鮮戦争もまた世界最大の強国・米国の冷戦政策、アジア戦略から発したのである。しかし奇妙なことに米国はこれらの諸要因に触れることを避け、とにもかくにも朝鮮戦争は「北朝鮮の不意の奇襲」によるものであると一方的に強調している。

 朝鮮戦争は1950年6月25日に全面的に始まるのであるが、朝鮮民主主義人民共和国に対する挑発的戦闘はすでに49年から始まっており、米軍の指揮下で連隊、師団単位の38度線以北に対する侵攻はこの年だけで2617回に達した。当時、李承晩政権は強大な米国の力を背景に「北進統一」「滅共統一」を唱え、「韓国軍がひとたび立てば朝飯は開城で、昼飯は平壌で、夕飯は新義州でとることになろう」と公言し挑発行動をくり返したのである。

 当時、米軍は南朝鮮に500余人の軍事顧問団をおいて韓国軍の訓練を強化していたし、ソウルに常駐する米軍の情報機関は韓国情報機関を動かしながら大規模な情報活動を行っていた。

 開戦前の38度全線にわたる激しい戦闘を西側メデイアも「小さな戦争」だと伝えたが、マッカーサーがまるで初めて事態の急迫にきづいたかのように「北の不意の奇襲」を云々するのは、戦争の責任を朝鮮に転嫁するためのあまりにも見え透いたうそである。

直前の前線視察

 戦争挑発の直前に米国には幾つかの重大な動きがあった。49年に1億1000ドルの対韓軍事援助がなされ、50年1月には「駐韓米軍顧問団設置協定」と「韓米相互軍事援助協定」が調印された。同じ1月にブラットレ米統合参謀本部議長と陸、海、空三軍の首脳が来日し、日本の軍事基地強化にかんして声明を発表した。開戦1週間前の6月18日にはジョンソン国防長官とブラットレ統合参謀本部議長、ダレス国務長官が来日し、ダレスは38度線を直接視察した。

 米国の政策を決定する最高首脳部がそろって来日したのは、もちろん「フジヤマ」「ゲイシャガール」の観光にきたわけではない。それは朝鮮の軍事情勢を検討し、戦争開始の最終決定をするためであった。(白宗元、歴史学者)

[朝鮮新報 2006.6.24]