〈ブッシュ政権 軍事再編戦略の危険性−上〉 「作戦統制権」掌握の50年 |
南朝鮮駐屯米軍司令官が50余年間にわたって掌握してきた南朝鮮軍に対する「戦時作戦統制権」の還収(取り戻し)問題を巡る折衝が、盧武鉉政権とブッシュ政権の間で続けられている。南朝鮮の多くの人びとが戦時作戦統制権の早期還収を支持しているのに対して、ハンナラ党や一部のマスコミなど保守、守旧勢力が反対して厳しく対立している。「戦時作戦統制権」の返還は、韓米関係のみならず北南関係をはじめ朝鮮半島情勢全般にも重大な影響を与えると見られている。「ブッシュ政権の軍事再編戦略の危険性」について、韓桂玉・大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授が3回にわたって解説する。 対米隷属の始まり
1945年8月、日本の敗戦により、朝鮮はその植民地統治から解放され、自由、独立をめざす。しかし米国は38度線を境に朝鮮を北南に2分して南朝鮮を占領、軍政を実施しつつ南朝鮮の軍事基地化政策を強行する(北にはソ連軍)。朝鮮半島の北南分断政策の始まりである。48年8月、発足したばかりの李承晩政権に対して米国は「米韓暫定協定」を押しつけ、「米軍は駐屯する期間、韓国軍を組織、訓練、武装する権限」および、「米軍駐屯に必要な鉄道、逓信、飛行場、基地などの所有権」を手に入れた。「作戦統制権」の原形である。 50年6月、李承晩軍の北進攻撃により朝鮮戦争が勃発すると、当時米国の圧倒的な影響下にあった国連安保理はこれを「北の侵略」とする決議を採択、15カ国の兵力による統合軍司令部を編成して「朝鮮における警察行動をとる」こととし、米国にこの司令官の任命を要請した。これを受けてトルーマン米大統領がマッカーサー(米極東軍司令官)を「国連軍」司令官として任命、東京に司令部を置き兵力を朝鮮に派遣して北進戦争に突入する(米軍はすでにそれ以前に朝鮮戦線に投入されていた)。国連憲章には「国連軍」は存在しない。いわゆる「朝鮮国連軍」が「幻の国連軍」「国連軍イコール米軍」と指摘されるゆえんである。 50年7月15日、李承晩大統領は東京のマッカーサーに「韓国陸海空軍に対する指揮権委譲に関する書簡」(大田協定ともいう)を送り、「現作戦状態が継続される間、いっさいの指揮権を委譲する」ことを確約、「韓国政府と軍、国民は貴下の隷下に服務することを光栄とする」旨を記している。 53年7月、板門店で停戦協定が調印された。協定(第4条60項)には、「停戦協定の発効後3カ月以内に双方は高級政治会議を開き、外国軍隊の撤退及び朝鮮問題の平和的解決を協議する」と規定され、国連総会もこれを全面的に支持した。だが米国側は同年12月、一方的に協議会場から退場し、停戦協定を破綻させ、その後も北側の「国連軍」解体、平和協定締結、米軍撤退などの提案をことごとく拒否し、駐韓米軍に「国連軍」の旗を掲げ続けている。なお日本の米軍座間基地(神奈川県)には「国連軍後方司令部」が置かれ、米国旗、国連旗、日の丸が掲げられている。 朝鮮戦争停戦後の53年10月、李承晩政権は「韓米相互防衛条約」に調印、その中で「米陸海空軍を無期限に韓国に駐留する権利を許容」し、さらに54年11月には「韓米協約調印に関する共同声明」で、「韓国は国連軍司令部が韓国防衛の責任を負担する間、韓国の軍事力を同司令部の作戦統制(管轄)下に置く」ことに同意した。この共同声明で李承晩政権は北南統一問題においても「米国と協調する」ことを約したのである。 重大な抜け穴 78年11月、米国は駐韓米軍を強化し南朝鮮軍への統制をいっそう強めるために「米韓連合司令部」を創設したが、その際に「停戦協定に関する条項」のみを国連軍司令官に残す形式を取り、そのほかの軍事機能と権限など作戦統制権は「米韓連合司令官によって行使する」仕組みを発表した。 駐南朝鮮米軍司令官は国連軍司令官、連合軍司令官の3つの帽子を1人で被っており、時と場合によってその帽子を被り直しているが、この場合は国連軍司令官の帽子を脱ぎ、連合軍司令官の帽子を被ったケースである。 もともと米軍の駐屯に反対してきた南の人びとは、61年5月の朴正煕の軍事クーデターや80年5月の全斗煥・新軍部による光州市民の民主化運動に対する鎮圧、虐殺に、米軍司令官が作戦指揮下にある南朝鮮軍隊の移動、投入を許可したことなどを非難し、反米感情が高まった。そのため米国側は94年12月に「平時作戦統制権」だけを南側に返還したと発表した。だが、それには「抜け穴」があった。一般的にはあまり知られていないが、一部の作戦統制権を連合軍司令官に委任する、「連合権限委任事項」(CODA)6項目がそれである。▼連合演習と合同訓練の計画と実施▼戦時作戦計画の樹立、発展▼指揮、統制、コンピューター、情報(C4I)相互運用性などは平時にも連合軍司令官が掌握し行使することを内容とする規定を設けた。名目だけの「平時作戦統制権の返還」だった。 こうして南朝鮮軍は戦時のみならず平時にも事実上、米軍司令官の指揮の統制下に組み込まれ従属してきた。軍に対する指揮、統制権は統帥権=軍事主権を意味する。しかし南朝鮮では60余年にわたって米軍が無期限に駐留して南朝鮮軍に対する作戦統制権を行使してきた。 南朝鮮は軍事主権を外国にゆだねている世界唯一の国である。しかも駐留している米軍をテコとして、北南分断を固定化してきた。 南で米軍の存在は政治、経済的にも大きな役割を果たし、民族統一にも大きな障害要因となってきた。そのため南の人びとは一貫して絶え間なく作戦統制権の返還や米軍の撤退を要求してきた。とくに、2003年に就任した盧武鉉政権は「自立国防」と「対等な韓米関係」を掲げ、「10年以内の作戦統制権の還収」方針を提示した。 同年、米軍の世界的再編の一環として、軍事境界線の米第2師団や竜山(ソウル)基地の平沢移転が決まった時点から双方間の戦時作戦統制権返還協議が進展してきた。 昨年10月の第37回南朝鮮・米年例安保協議会議で「作戦統制権問題の協議を加速化させる」ことで合意した。さる8月中旬、盧武鉉大統領は「今すぐ返還してもらっても構わない」といい、ラムズフェルド米国防長官は「2009年に作戦統制権を委譲する」旨の書簡を南の尹光雄国防部長官に送ったと報道された。 9月14日の盧武鉉・ブッシュ首脳会談では「協議を通じて適切な返還時期を定める」ことで合意したという。南の国防部側は、9月中の「南朝鮮・米安保政策構想会議(SPI)」で「作戦統制権還収のロードマップ」を作成し、10月の年例安保協議会議で最終的に確定すると発表している。 冷戦、対決、反北思考 作戦統制権の還収に対して南朝鮮の多くの人びとや市民団体は支持、歓迎している。各種マスコミの世論調査によっても、50%から70%が戦時作戦統制権の還収を支持し、米軍撤退を要求し、米軍の平沢基地移転、拡張に反対している。 だがハンナラ党や一部の団体、マスコミなど保守、守旧派は作戦統制権の還収に反対の声をあげている。「安保の危機を招く」「韓米同盟をゆるがす」「韓米連合軍の解体、米軍撤退につながる」というのである。 ハンナラ党、前国防部長官グループ、陸海空士官学校同窓会、前外交官グループなどが前面に登場し、保守マスコミが反対論を煽っている。なかには「作戦統制権の返還は北への南進招待状」だとか、「われわれの準備が終わり、南北統一と中国の民主化が進んで東北アジアが安定した時でも遅くはない」といったことまで唱えている。そして「作戦指揮権移譲交渉の中断」を盧政権だけでなくブッシュ大統領にまで要請するという騒ぎようだ。 しかし、歴史的な過程をふり返ってみると、作戦統制権還収絶対反対の行動を繰り広げている人々はいずれも日本の植民地支配時代の親日派の後裔か、解放後に米国の植民地政策に追従、奉仕した代価として出世した既得権層である。 彼らは6.15北南共同宣言を「北の南進路を作ってやるもの」と反対し、反北、反統一の集会に「星条旗」を掲げ、「米国国歌」を斉唱する集団である。彼らの主張はいわば、米軍の永久駐屯論、軍事主権の永久的移譲論、永久的な対米依存論である。 米軍の駐屯といい、作戦統制権の移譲といい、冷戦期の対決時代の産物である。 戦略環境が変われば戦略内容が変わるのは当然の歴史の流れである。今や6.15時代―北南の和解と交流、協力の時代、民族統一の時代である。作戦統制権は早期に無条件に還収されねばならず、国連軍は解体し、南朝鮮駐屯米軍は撤退する時である。(韓桂玉、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授) [朝鮮新報 2006.9.27] |