〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−5〉 最初の婦人商店店主 李一貞 |
李一貞は、愛国烈士李儁の内助の妻として国債報償運動の先頭に立った民族主義的女性先覚者であり、女性の経済的自立を目的とした婦人商店を最初に始めた女性である。 1877年、両班の家庭に生まれた彼女は1893年、漢城裁判所の検事補であった李儁と結婚。民族運動に駆けずり回る夫を助けるために力を惜しまなかった。 愛国者救出のため 李儁が国の自主権を擁護するために親日団体、「一進会」に対抗する「共進会」(1904年12)を組織。政権確立のため活発な活動を展開、再び警察に逮捕された時のことである。 彼女は、これに抗議して起き上がった「共進会」のデモに参加して、ソウル鐘路街でこう演説した。 「みなさん! 私は共進会会長の李儁氏の妻である李一貞でございます。みなさんがこのように会長を救出するためにデモに参加してくださいまして、私としては何と言って感謝していいか言葉もありません。それで私は女性の身でありますが、みなさんと共にこの運動に参加するために出て参りました。私は夫を救出するために出てきたというよりは、わが国の正義の闘士、李儁氏と羅裕錫、尹孝定両闘士および他の愛国者を救出するために出てきました」 また国債報償運動を推し進める時も、国債報償聨合会議所の初代所長として活動する夫と共にこの運動の先頭に立った。 自主的な運動 当時、「乙巳保護条約」(1905)を前後して朝鮮が日本に借りた借款額は1300万円に上っていた。良く知られているように国債報償運動とは、日本に借りたこの借款を国民の募金によって返済し国権を奪われまいとする救国運動であった。運動には男性と共に地域と階級を超えた愛国愛民の女性たちがたくさん参加した。この運動は夫の地位や権力を借りて政府の補助金や高官への寄付金を集めたのとは違う。自分のはめた指輪をはずして納める脱環会、おかず銭を節約して集める減膳会など他力に依存しない自主的で最も実質的な方法で行われた。 彼女はこの運動の主導的役割をソウル地域で果たした。もはや李一貞は、古い時代の因習に捕らわれる女性ではなかった。 婦人商店開店 彼女は、夫の李儁が政治改革運動を活発に展開する中、日本への亡命、獄中生活、島流しなどを余儀なくされ、家庭を顧みる余裕などまったくなかった状況で2児を育てながら夫を支えなければならなかった。このような辛い生活の中で彼女は、「女性といえども必ず独自に生活できる経済的な基盤を築き上げておかなければいけない」と強く悟るのである。 そして1907年の初め、ソウルの要地である鞍峴洞(現在の安国洞)の路傍に生活必需品を扱う「鞍峴洞婦人商店」を開店した。 商人をべっ視する社会風潮の中、女性は外出もままならず「スゲチマ」(頭から上半身を覆い隠すようになっているチマ)や「チャンオッ」(顔を隠すために頭からかぶった衣服)をかぶって歩いてた時代に、女性が堂々と看板を掲げ店をかまえて商売をしたというのは前代未聞のことであった。 洒落た西洋製のガラス戸を取り付け現代的に造られた店。接待する人も女性と聞いて「スゲチマ」をかぶった奥方やお嬢さんらも気軽に入って思いどおりの品定めをして帰る。それに掛値は少なく親切な応対に、店は男女を問わず顧客が増え売上げを伸ばしていった。彼女はこうして得た利益の一部を、日本に留学する学生の奨学資金として千両(20ウォン)を超えるお金を寄付したという。 1907年、オランダのハーグで第2回万国平和会議が開かれたとき、「乙巳保護条約」の無効を訴えるための高宗の密使として行った夫、李儁が抗議のすえ自決し帰らぬ人となった。その後夫の消息を知るためロシアなどを訪ねる間、商店は閉鎖されてしまうが、前妻の息子縺i鐘乗の改名)は中国杭洲に行き軍官学校を卒業した。そして娘、金鈴を自力で進明女学校に進ませ、日本に留学させた。いまから100年前のことである。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) ※李一貞(1877−1935)。両班の家庭に生まれ1893年、李儁と結婚。夫の愛国文化活動を支え国債報償運動の先頭に立つ。1907年、ソウルで「婦人商店」を開く。李一貞が先頭にたった国債報償運動は、日本に経済的に隷属するとの危機的状況克服のために始まった、抗日の自主的国権主護運動であった。 [朝鮮新報 2006.1.23] |