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〈第28回在日朝鮮学生「コッソンイ」作文コンクールから〉 中級部2年生 散文部門

「心のふるさと」

 今でも私は、うれしいことや悩みごとがあると母校を訪ねます。

 母校は、いつ訪ねて行っても私をよろこんで迎えてくれます。

 そして、母校を訪ねるたびに、先生がおっしゃっていた言葉が浮んできます。

 「学校を奪われたら、君たちが帰ってくる場所がなくなってしまう…」

 私の母校は、東京都枝川にある東京朝鮮第2初級学校です。

 私はここで6年間、朝鮮の言葉と文字、歌と踊りを学び、民族心を育んできました。

 よくわからない人たちは、第2初級の校舎を古い工場とまちがえると言います。

 工場地帯にあるうえ、建物は古く、長年の歳月、雨風を受けてあちこちに染みができているから、児童の遊び回る姿や力強い歌声がなければ、たしかに工場とまちがえてしまうかもしれません。

 表面だけが古いわけではなく、実は雨が降るだけで天井のあちこちから水が漏れます。

 大粒の雨や嵐に遭ったらもっと大変です。

 床や窓からも水が漏れて壁紙にも染みがつきます。

 雨が降るとみんな朝早く登校して、片手に雑巾、片手にバケツを持って、漏れる雨水を拭いたり、汚れた所を探して掃除をします。だから教室の床はいつもツルツルしています。

 第2初級を訪ねてくるお客さんたちは、校舎は古いが校内がとてもきれいだと驚きを隠しません。

 とくに第2初級は緑が多く、空気も澄んでいます。

 春になれば運動場を囲んだ数十本の桜の木たちが先を争っていっせいに咲き誇り、文字どおり花園の中にある学校になります。私はこの季節の母校が一番気に入っています。

 校舎は古いけど、運動場は東京都内の初級学校の中で一番広いです。

 そればかりか、高さ10mを超える朝鮮ブランコがあることも第2初級の自慢です。

 朝鮮ブランコに乗ってゆうゆうとこげば、気持ちがどんなに良いか、その快感は忘れることができません。

 第2初級で過ごした日々を振り返ってみると、なんだか毎日が楽しかったことだけが思い出されます。

 運動会や文化祭の日、校内は賑わいます。

 この家あの家のオモニたちがチヂミを焼いて、お餠をこねて、わが家の料理が一番だとお互い自慢し合いながらおいしく分けあって食べあい、小運動会やクイズ大会など少年団のイベントが催されるとみんなが1位を競って熱く燃えました。それもそのはず、放送を通じて同胞たちの間にまたたく間に知らされるからです。

 しかし、私の愛する母校が今、「土地問題」で大きく揺れています。

 美濃部都知事のときには20年間無償で使ってきた学校と運動場を、石原都知事は今すぐ東京都に返すか、そうでなければばく大な土地税を支払えというのです。

 あまりにも大きな衝撃でした。

 私はまったく理解できませんでした。

 なぜ? どうして? 私の母校が?

 弁護士の先生の話によると、今回の東京都の仕打ちは本当に不当だと言います。

 第2初級が位置しているここ枝川地域は、その昔、日帝植民地末期につくられた朝鮮人部落です。

 オリンピックの開催にあたって、貧しくて、みすぼらしく暮らす朝鮮人が都市美化の邪魔になると、まだ未開発だったこの地に強制移住させられた所なのです。

 当時の枝川地域には、道路もなく、上下水道も電気もなかったそうです。

 文字どおり人が暮らせる場所ではなかったと聞いています。雨がちょっと降っても水があふれて、食卓の上には1年中ハエが真っ黒に群がっていたと言います。

 そんな中でも在日1世の人たちは、いの一番で学校の敷地を探し、砂を敷いて運動場を磨きました。1円、2円…同胞たちがせっせと集めて建てたのが私の母校、東京第2初級です。

 だから私は、校舎は古くても、第2初級を本当に誇らしく思います。

 2005年の夏、学校の運動場では毎年恒例の8.15解放記念日を祝した夜会が開かれました。

 運動場はたくさんの人であふれかえりました。

 アボジ、オモニ、地域の同胞たちはもちろん、南朝鮮から遊びに来たという人たちも集まりました。

 舞台ではのど自慢と踊りが披露され、あちこちの売店では、「サンホのアボジー、焼肉召し上がってくださーい」「ユナのオモニー、このチヂミおいしいですよー」と、女性同盟のオモニたちの力強い声が飛び交いました。

 私は友だちと飛び回りながら、売店で食べ物を買って食べたり、一緒に踊ったりしながら楽しく遊びました。

 でも、今年の8.15夜会は例年とは少し違いました。

 毎年参加している地域の日本の人だけではなく、有名な日本人弁護士や、団体責任者といった人たちがとくに多く参加したのです。

 マイクの前に立った日本の人たちは、「第2初級の土地問題解決は、自分たちの生活圏を守る問題だ。みなさん、一緒に闘いましょう!」と、熱烈な連帯のメッセージを送ってくれました。

 私はなんだか胸が高鳴るのを覚えました。手は痛かったけど、ずっと拍手をし続けました。

 私がもっとも感動したのは、日本の人たちが「日本支援連絡会」という組職を作り、第2初級を守る運動に取り組み始めたということです。

 それだけではなく、「枝川基金」を集めて、現金100万円を寄付してくれたとのことでした。

 「ウヮー」という歓呼と、大きく力強い拍手の中、「ともに最後まで闘おう!」との叫び声と祝杯をあげる音が、第2初級の運動場の夜空に大きく響きました。

 私は思いました。そして確信しました。

 (私の母校―私たちの「心のふるさと」は、同胞たちの愛と、朝・日親善の連帯の中でいつも私たちを温かく迎えてくれるだろう)と…。(朴麗実、東京中高)

[朝鮮新報 2006.2.4]