〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−6〉 独立闘士 安敬信 |
安敬信は、女性の身で警察署に爆弾を投擲した独立闘士である。 彼女は、平壌女子高等普通学校技芸科を卒業後結婚したが、早くにして寡婦となる。国を奪われた悲しみのうえに自分の不幸まで背負った彼女は、教会へ足を運ぶようになる。 もともと反日感情の強かった彼女は、3.1独立運動が起きた1919年10月、行動を開始。平壌西門洞に集まった群衆の前で勇ましくも一場の演説を始めたのである。 「われわれは万歳を武器としてウェノム(倭奴)に対抗しなければ亡国民としての束縛から解放されないでしょう。さあ、みんなで万歳を叫びましょう!」 彼女に続いて群衆も万歳を叫んだ。これがもとで彼女は警察に20日間拘留される。この事件を契機に彼女の日帝に対する敵愾心はより強まった。 再婚、裏切り その頃、女性信者を中心に愛国婦人会支部が組織され、彼女は江西支会財務職を担当するが翌年の初夏、上海臨時政府連絡員に資金を伝達したことが探知され、婦人会幹部に警察の手が伸びてくる。同時期、彼女は上海で妻子を亡くしたという独立運動家金行一と出会う。 金の求婚を受け、13年間1人で生きてきた彼女の心は揺れ動くが、悩んだすえ、夫婦になることを約束、2人して国境を越え満州へ向かった。 彼女はそこで安贊の率いる青年団連合会に加入、多くの同志を得る。光復軍の総領、呉東振を知ったのもこの頃である。 当時満州と上海で戦っていた独立運動家は、東洋を視察するアメリカ議員団が朝鮮を通過する際、朝鮮民族がどれだけ独立を熱望しているかを示すべく巨事を起こす計画を練っていた。 満州を経て上海にたどり着いた彼女は、晴天の霹靂とも言うべき事実を知る。金行一の妻子が亡くなったというのは真っ赤な嘘だったのだ。しかし、すでに彼女の体には新しい生命が宿っていた。 彼女は独立運動に没入することでこの苦しみを乗り越えていく。 爆発計画執行 呉東振の指示により文一民、金永哲、朴泰烈を中心に長徳震、安敬信ら5人の武装独立団が結成された。文一民は平安道、朴泰烈は黄海道、金永哲はソウルを担当、変装した彼らは爆弾1個ずつを背負い鴨緑江を渡った。彼女には導火線が任された。一行は苦難のすえ平壌に到着した。 文一民は崇賢女学校の側の炭鉱の中に2日間隠れ、地下室のガラス窓に射す光で雨に濡れた導火線を密かに乾かした。当時平壌青年会女子伝導団を組織、秘密工作を展開していた19歳の権基玉(後に中国空軍で活躍した最初の女性パイロット)がこの隠れ場の地下室にマクワウリや冷麺などの食べ物を差入れして、誠意を尽くして助けたという。 1920年8月3日、平安南道警察庁新築庁舎を爆破。庁舎の壁やガラス戸は粉々になり、警官2人が爆死した。次の日、安敬信は海州から戻った朴泰烈と落ち合い、平壌警察署に爆弾を仕掛けたが惜しくも不発に終わる。 捜査の手が広がる中、5人は一時大同郡秋乙美面梨川里、金ウンボンの家に身を潜めた後脱出する。そのあと4人と別れた彼女は、平壌大同郡一帯を転々として、咸興、元山などに逃げ渡る。そして子どもを産んだ。 死刑宣告 1921年3月、彼女は逮捕された。乳飲み子をつれた彼女に下った判決は死刑であった。 これを知った文一民は「爆弾を投げた者はここに居る」と言う内容の手紙を平壌裁判所に送達した。彼女が死刑の宣告を受けることになったのは、金ウンボンの家に独立団の5人が身を潜めていた時食事の世話をした平壌崇実中学校の生徒、金考録の証言が決め手となった。 食事を運んだ時、「女性の声がした」と言う孫の証言が、判決の決め手となったことに心を痛めた金考録の祖父は、平壌で指導的人物であっだ晩植に会う。彼の助言で金考録は一審の証言を翻し「女性の声は聞いていない」と証言。彼女は死刑から懲役10年と減刑され通算180日の未決拘留となった。だが、金考録(後に高麗大学校教授として在職)は偽証罪で6カ月の実刑を被る。 国を取り戻そうと幼子を抱えて獄中生活を強いられるなど苦難の道を歩んだ。釈放されたあと、貧しい農夫と再婚したとの噂があるだけで、晩年について知る人はいない。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) 安敬信(1894−?)。平安南道順川で生まれる。平壌女子高等普通学校技芸科卒業。愛国婦人会江西支会役員。満州へ行き青年団連合会に加入。武装独立団員として国内に入り活動。1920年8月3日に平安南道警察庁爆破事件に関与して1921年3月逮捕される。 [朝鮮新報 2006.2.6] |