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〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜@〉 高麗の都、史上初の統一国家

 現在、高麗の古都・開城市の歴史遺跡を世界遺産に登録するための運動が、昨年に続いてすすめられている。2004年7月、高句麗壁画古墳が世界遺産に登録されたのに続く、朝鮮における歴史遺跡を世界遺産に登録するためである。

 思い出されるのは、高句麗壁画古墳が世界遺産に登録されるべきであるとして提案され、運動がすすめられたことである。3世紀後半から7世紀初にかけて、途切れることなく描き続けられてきた高句麗壁画古墳が世界遺産に登録された時は、喜びと共に当然であろうという感が強かった。むしろ遅きに失したという思いがしてならなかったからである。ほぼ4世紀にわたって世紀を継いで描かれてきた歴史的な遺産である壁画古墳は世界に類例がない。それがようやく世界遺産になったのかという感を否めなかった。開城市の歴史、文化遺産を世界遺産に登録するための活動を前にしても、そうした感がなくもないが、何よりも一日も早く登録され、東アジアはもちろんのこと、世界の多くの人々に知ってもらいたいと熱望してやまない。

軍事境界線都市

開城・羅城(北側城壁と北昌門址)

大興寺(高麗時代の山寺)

 知られているように現在の開城市は、朝鮮民族を分断している軍事境界線にのぞむ古都である。しかし、本来開城市が象徴しているのは、初めて統一された民族の証としての開城の歴史の深さと、それと結びついた民族文化としての豊かさを特徴とする文化である。

観音寺の観音仏像

 高麗を建国した王建は、松岳(松嶽、開城)地方の一豪族にすぎなかった。その王建は、中部朝鮮に勢力を張っていた泰封国の王・弓裔を倒して王となるが、高句麗の後継者であることを自負して国名を高麗と号した。918年のことである。その翌年の919年には、都を松嶽、今日の開城においた。935年、国力が衰退していく慶州の新羅は勢い盛んな高麗に降伏した。その翌年の936年、高麗は後百済を武力によって手中におさめた。こうして、かつて高句麗、百済、新羅の三国が激しく覇権を争っていた三国時代とその後継の時代は終わりを告げた。高麗が三国を統合し、朝鮮半島を初めて統一したのである。これは、民族史における新しい展開であった。ちょうどこの頃、今日の中国東北地方(旧満州)にあった渤海国、それは高句麗を継承した人々の国家であるが、その渤海国が北方に位置していたモンゴル族の一つである契丹によって滅ぼされた。926年のことである。この時期、亡国の民となった渤海の人々は何を思い、どこを目指して動いたのであろうか。

1000年の歴史刻む

南大門

 渤海の人々は、朝鮮半島の中央に位置し、同胞、同族の国でもあるばかりでなく、勢力を広げ、新しく高句麗を継承した新生の国家・高麗を目指して移動したのであった。この時王建の高麗は、多数の渤海の同胞を迎え入れたのである。こうして高麗は、朝鮮史上、初の民族統一国家として出発した。その統一国家の最初の都は、いうまでもなく開京・開城である。開城は、開京、松都などと呼ばれてきた。開京は1392年、高麗王朝を滅ぼして李朝を建てた李成桂によって、1394年、漢陽、今日のソウルに遷都するまでの間、高麗の都であった。ただこの間、モンゴルによる高麗侵略が繰り返され、都が占拠され開城から一時期遷都したことがある。1232〜1253年にかけて、5度モンゴル軍が高麗に侵攻した。1254年から1259年にかけては4度も侵攻した。こうした繰り返されるモンゴルによる高麗侵略のために、高麗政府は1232年のモンゴル第2次侵略の時には、開城の目前の海に位置する江華島に遷都して、そこに臨時政府が置かれたことがあった。こうした戦時の遷都の場合もあるが、基本的には高麗の都は開城であった。

高麗王朝の忠臣であり大学者であった鄭夢周(1337〜1392)が暗殺された善竹橋

 開城は、高麗の政治、経済、文化、学問の中心地であった。したがって開城の歴史と文化を語ることは、民族統一の国家としての高麗文化の神髄と、その豊かさにふれることにほかならない。

 このたび、世界遺産の登録を申請している開城市の文化遺産は、次に挙げる11件の歴史遺跡が対象となっている。

 1、開城城−平壌城にならって、王宮だけを守るだけではなく、都市全体を外国による侵略から守るために築かれた城壁は、開城の都市の外側をぐるりと廻る羅城である。

再建された高麗太祖の王建王陵

 2、満月台と南大門−満月台は開城市を象徴する名峰である松嶽山を背景に、南麓のゆるやかな斜面に階段状に築かれた独特な王宮であり、南大門は七つの城門を持つ開城城の内城の南門である。

 3、王建陵−高麗の初代王、風水説にしたがって築かれた王建陵の墓室には、松、竹、梅の壁画がある。

 4、恭愍王陵−高麗王朝末期の王である恭愍王の陵墓であり、王妃の陵が隣接している。

 5、成均館−松嶽山の東側山麓に建立された王宮の別宮であるが、外国からのひん客の宿泊や、儒教経典の管理などにも使用された。

満月台−高麗王宮跡

 6、善竹橋−高麗末期において高麗朝を擁護した儒学者にして政治家である鄭夢周が李成桂一派によって暗殺された石橋。

 7、表忠碑−善竹橋の近くに建てられた碑閣のなかに置かれた碑は、李成桂に反対し、高麗王朝を守る鄭夢周の忠義を称えている。

 8、ッ陽書院−鄭夢周の住居であったが、朝鮮朝時代には両班の子弟を教育する儒学校となる。

 9、大興山城−北方からの侵略から開城市を守るため大興山に築かれた山城。

10、観音寺−大興山城内の景勝の地にある朴淵瀑布に隣接する寺院である。

 以上の10項目、11件の開城市の歴史遺産が、高麗文化の形成において、どのような歴史の状況に関わっているかを探りながら語ってみたい。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天)

[朝鮮新報 2006.2.15]