〈生涯現役〉 3回目の個展も盛況−尹光子さん |
1月の終わりから2月初めにかけて、東京・銀座のギャラリー・ムサシで開かれた3回目となる尹光子個展には、約200人以上の美術ファンが訪れた。 41点の風景画(油彩)が出展された個展では、約30年にわたる画業の集大成ともいえる「大源太湖」「れんげ畠」「千曲晩秋」などの美しい日本の山や農村の風景に混じって、セットンのパヂ・チョゴリをまとった男の子と、どこか郷愁の漂う港の風景画が展示されていた。 この2枚こそ、尹さんの胸深くに刻まれた大切な原風景なのである。それは息子の幼い日を描いた絵であると同時に、日本で絵の展覧会を開くたびに、朝鮮民族の証として掲げ続けた自らのルーツを示すシンボルでもあるのだ。そして、もう一枚の絵は、前に帰国し、今は亡き父母、6人の兄弟の暮らした祖国への玄関口・元山の港の風景を描いた絵である。「随分前の話だけど、グループ展では上の人が、朝鮮の子どもの絵を展覧会場の正面に展示するのをすごく嫌がって、『れんげ』の絵に差し替え、奥の方に朝鮮の子どもの絵を移した。小さな絵のグループでもそんなことがあったけれど、今では、みなが応援してくれるだけでなく、『男の子の絵、かわいいわ』とか、『(セットンの)色いいわね』と観客が感想を語ってくれるようにもなった」。 物腰の柔らかさと優しい口調。しかし、こうと決めたら誰が何と言おうと志を曲げない頑固さが、厳しい絵の修業に向かわせたのであろう。 受難の記憶
かつて、「原爆の図」や「アウシュビッツの図」などを描き、日本の加害責任を鋭く告発した画家の丸木俊さんには、「からす」と題した作品があり、背景に空を舞うチョゴリが描かれている。そこには被爆しても、最後まで治療をしてもらえず死に絶えていった朝鮮人の無念さや怒り、悔しさ、そして望郷の心が込められていた。 尹さんも多感な中学2年の時、解放を迎えた。自らの体験から、朝鮮人の受難の記憶を決して忘れてはならないと胸に刻んでいる。 「幼い日、福島の常磐炭鉱の一つ好間炭鉱で、強制連行されて酷使されていた同胞アジョシたちの悲惨な姿をはっきり覚えている。彼らは真冬でもボロボロの服を着て、夏はハダカだった。痩せて目だけがギラギラ光って。ムチ打たれ、半死半生のリンチを受けて耳をつんざくような悲鳴をあげていた」 日本のメディアが拉致報道を取り上げて、「経済制裁」「圧力」などと騒ぎ立てるたびに、尹さんは小学校に上がる前に見た身も凍るような光景を思い出しながら、こう話す。 「加害者は自分のことを忘れ、被害者は永遠に虐げられたことを忘れない。日本はまず、植民地時代にどれほど惨いことをしたかを知り、その解決こそ急ぐべきであろう」 尹さんの父は全羅南道康津の出身。母は木浦の人だった。1925年に結婚した両親だったが、その年に父は福島県の平(現、いわき市)に来て、農作業を手伝ったり、皮職人をしたりした。そして、10年後に母が日本に渡り、その年に尹さんが生まれた。その後、7人の弟と妹が生まれ、一生懸命働く両親の代わりに長女の尹さんがずっと子守りをし続けた。「とにかく、背中にはいつも誰かを負ぶっていたので、背中が空いていたことがなかった。学校に行くようになると兄弟が少ない友人がうらやましかった」と遠い日を懐かしむ。
その後、茨城県高萩に移り、地元の中学から常陸市内の県立高校へ進む。絵を学び始めたのもこの時代。「中学の図画の時間に、仲良し2人の絵を代作して先生に提出したところ、自分の絵の点数が一番悪かった」と苦笑い。高校時代には、ポスターなどの絵が絵画コンクールで入選した。 60年に25歳で結婚。茨城県本部の事務員として働くが、茨城朝鮮初中高級学校の教員をしていた夫の朴鳳瑄さんのあと押しも受けて、朝鮮大学での一年間の講習に参加。尹さんはここでピアノや絵画を学び、茨城の朝鮮学校や東京第7初級学校で美術を教えた。その後一粒種に恵まれたが、絵筆は捨てがたく、学校で学びながら、本格的な絵の道に。 それから31年の歳月が流れた。その間、朝鮮美術家同盟、在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)のメンバー、女性展・パランピッの会長として後輩女性たちを見守ってきた。「昔は女が画材なんてと白眼視されたことも。結婚、出産、子育てと中断せざるをえない時もあった。でも、絵はやり続けてこそ、うまくなる。絵をやりたい人は、ぜひ、続けてほしい」とエールを送る。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.3.6] |