「北関大捷碑」、101年ぶり 元の所在地に、南を経由して日本から取り戻す、文化財返還の新たな契機に |
【平壌発=姜イルク、呉陽希記者】日本の植民地支配に抗して朝鮮全土が立ち上がった3.1人民蜂起87周年にあたる1日、開城で「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」引き渡し式が行われた。北南の代表らが引き渡し、引き受け証書に署名した。日本の軍人によって略奪され靖国神社に放置されてきた碑は、101年ぶりに南朝鮮を経由して元の所在地である咸鏡北道吉州(現在の金策市)に帰った。
開城高麗博物館で行われた引き渡し式には、北側から「北関大捷碑」取り戻し対策委員会のキム・ソクファン委員長、朝鮮仏教徒連盟中央委員会のシム・サンジン副委員長ら、南側から「韓日仏教福祉協会」、「北関大捷碑民族運動中央会」会長のチョサン僧侶、「北関大捷碑」返還推進委員会の金元雄(開かれたウリ党議員)、兪弘濬(文化財庁長)の両共同委員長らが参加した。 式典では南の文化財庁文化財政策局の金鴻烈局長が、日本から100年ぶりに碑を取り戻した(05年10月)経緯について報告した。 つづいて北南の代表らが発言した。北側のキム委員長は、文化財である「北関大捷碑」を元の所在地に立派に建て、きちんと保存することによって、朝鮮人民の文化伝統と愛国精神、日本の罪について次世代にしっかり伝えていきたいと語った。 南側の金共同委員長は、日本帝国主義時代に略奪された多くの文化財がいまだに返還されずにいると指摘し、今回の出来事が文化財返還の新たな契機になるべきだと述べた。
チョサン僧侶は、「北関大捷碑」は7千万民族を一つに団結させ、自主統一の道を切り開く役割を果たしたと強調した。 式典で北側は参加者一同の名義による対日声明を発表。日本に▼靖国神社参拝の即時中止▼歴史わい曲策動の中止と罪多き過去史に対する謝罪、補償▼独島領有権主張の即時撤回▼略奪文化財の遅滞ない返還―を強く主張した。声明は、「朝鮮は日本の犯した過去の罪悪を徹底的に計算しており、日本が軍国主義の野望を捨てるまで息長くたたかいを展開していく」と強調した。 「朝・日交渉過程で必ず守って」 「『北関大捷碑』の返還を南と北の力を合わせて民間級で成就させたことは、この時代の文化義兵運動であり評価すべき偉業だ」(兪共同委員長)。 式典を通じて北南の関係者たちは、植民地時代に日本帝国主義によって略奪された文化財の返還を実現するうえで、今回の引き渡しを新たな契機にすることを誓い合っていた。 北側のシム仏連中央委副委員長は、「われわれは日本が罪の歴史をきれいに清算して、過去に強奪したわれわれの文化財をすべて返還するよう共同の活動を積極的に繰り広げなければならない」と強調した。 南側関係者からは、朝・日国交正常化交渉と関連して今後の北側の対応に期待感を表明する声が目立った。 返還推進委員会の金共同委員長は、「南が正しく守れなかったわれわれの文化財を朝・日交渉の過程で北が必ず守ってくれるよう望む。そのためには南の政治圏も市民社会とともに積極的に支援すべきだ」と発言し、場内から盛んな拍手を浴びていた。 北南共同の努力で実現 【メモ】 豊臣秀吉による朝鮮侵略の際、義兵を起こして加藤清正軍とたたかい、ついには撃退した鄭文孚(チョン・ムンブ)将軍の功績と将兵たちの戦功を記録したのが「北関大捷碑」である。1709年咸鏡北道吉州(現在の金策市)に建立された。露日戦争の時、豆満江にいたロシア軍を攻めるためにこの地に進出した日本軍の第2後備師団の池田正介旅団長が村人を脅して引き抜き、本国に転任する三好成行師団長に託したとされている。 碑は1905年に広島に到着。清日戦争の「戦利品」記念館に陳列され、その後、靖国神社に移された。 当初は「遊就館」のそばにあったが、近年は本殿近くに、まるで人目に触れさせたくないかのように放置されていた。2004年7月、南に返還を促進する汎民族運動本部が発足。同年12月には北南の民間団体の間で南から北に引き渡すことで合意した。靖国神社側は外交通路を通じて05年3月に返還の意思を表明。同年10月に駐日南大使館と日本の外務省、神社の三者が返還合意書に署名した。こうした過程を経て10月20日、碑はいったん南側に返還された。 昨年6月の第15回閣僚級会談で北南双方は日本から同碑の返還を受けるための実務的措置を講じることで合意していた。今年2月13日、開城で北側に引き渡すための実務協議が妥結し、20日の実務協議を経て1日の引き渡し、引き受け式開催となった。 奪われた日本から元の所在地に戻るまで、実に101年の時が経過した。 [朝鮮新報 2006.3.7] |