〈人物で見る朝鮮科学史−5〉 古朝鮮から高句麗へ(上) |
中国古代の知識人は、東方に住む異民族を「東夷」と呼んだ。夷という漢字は、「大きい弓」という意味であり、その民族は強力な軍事力を持っていたことが窺える。他方、「くろがね」を意味する「銕」にも、夷という字が用いられており、優れた鉄器文化を誇っていたのではという推測も成り立つ。この東夷こそ古朝鮮であり、またその文化を受け継いだ高句麗である。 前回、青銅器について述べたが、青銅器に続いて人間が得た金属が鉄である。金属加工技術の起源については、鉱石の上で火を熾したり、山火事によって鉱石が溶けて金属を得たという「自然冶金説」が有力視されている。銅と錫の合金である青銅も、最初はその両方を含む鉱石が溶けて得られたというわけである。他方、鉄に関しては地球に落ちた隕石の鉄を最初に採取したとする「隕鉄起源説」がある。隕鉄を知った古代人たちは黒光りする鉱石を溶かして鉄を得たのである。それを再び溶かして型に入れたのが鋳鉄、熱して叩いたものが鍛鉄である。また、それらを繰り返すと炭素が2%以下の鋼鉄となる。
中国では紀元前7〜6世紀に鉄器が現れ、戦国時代に広く普及したとされる。しばしば日本人学者を中心として、それが朝鮮に流入したとされるが、朝鮮ではそれ以前の鉄器遺物が確認されている。しかも、中国の鉄器は主に鋳鉄であったが、朝鮮のそれは鋳鉄、鍛鉄、そして鋼鉄までも同時期に生産されていたことが特徴である。鋳鉄にしても鋳型によってさまざまな青銅器を生産していた古朝鮮の技術を考えると、独自に鋳鉄を生産していた可能性は十分にある。 その後、紀元前2〜3世紀に朝鮮の鉄器技術は新たな段階に入るが、鋳造よりも鍛造が多くなり農工具が主流であったものが武器類、車馬具などと多様化し、それが広く普及する。高句麗が誕生するのは、まさにこの頃のことである。高句麗が東方の強大国になっていく背景には優れた鉄器文化が背景にあったことは想像にかたくないが、その典型を壁画古墳に描かれた鎧馬武士にみることができる。鉄を薄く延ばして人馬の鎧に加工できるほどに高句麗の鉄加工技術は高い水準を誇っていたのである。ただし、製鉄は高句麗の専売特許ではなく、百済や新羅にも独自の技術があった。「鉄を制すものは天下を制す」−朝鮮半島および日本の古代史は鉄をめぐって展開されたといっても過言ではない。 江上波夫博士の有名な「騎馬民族説」によれば、大陸から北九州地方に降り立った騎馬民族が東上し、日本の古代国家が成立したという。そこに高句麗の騎馬軍団を重ね合わせるのは筆者だけではないだろう。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.3.11] |