〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−7〉 女性校長 李貞淑 |
李貞淑は、純獻皇貴妃・嚴氏(英親王、李垠の母)のあと押しで明新女学校(後に淑明女学校)を創立し、開化期最初の女性校長として活躍した女性である。 名門両班出身 1858年、名門全州李氏、定宗大王の庶子、宣城君の子孫として京畿道で生まれた彼女は、6歳で父を亡くし、厳しい継母のもとで辛い思いをしながら育った。 しかし、生まれながらの聡明さと穏和な性格は、大きくなるにつれ美ぼうと徳性を備え人目を引いたという。 1873年、16歳の彼女は学識、人格を兼ね備えた趙寧夏と結婚した。朝鮮時代の最高官職である大提学、領議政を歴任する趙寅永の孫婦(孫の妻)、吏曹判書(長官)兼訓練大将、趙ビョンギの息子の嫁となる。趙大妃はほかならない彼女の大叔母に当たる。 結婚後彼女は「貞夫人」、2年後には「貞敬夫人」となる。「貞敬夫人」とは今でいう大臣の妻であるが、大家族の生計を引き受けた彼女の苦労は並大抵のものではなかった。彼女は舅と姑を手厚く奉養し政務に忙しい夫に仕え、下の者にはとりわけ厚徳を施した。 夫の死の衝撃 「貞敬夫人」李氏の夫婦生活は、11年を満たすことができなかった。1884年、甲申政変が起き、夫の趙寧夏が10月18日、郵政局事件により命を落としてしまったからである。悲しみのあまり彼女は一週間、一滴の水も飲まなかった。(食べなければ夫のあとを追うことができよう)と、彼女はまさに烈女になることを決心したのだ。意識がもうろうとなる中、目の前にかすかに見えたのは老いた姑であった。 (私が死んだら姑の奉養は誰がする。ましてや養子として迎えた趙東潤は誰が育てるというのか) こうして彼女は自決を断念するが、夫の死は彼女の人生を大きく変えていく。 国運が傾くなか、女性の啓蒙と教育が切実に要求されていた当時、嚴妃は日本の学習院のような王族(貴族)学校の創設を構想、その後ろ盾として「貴族婦人会」を組織した。そしてその会長として李貞淑、総務に朝鮮総督府の方針に沿って朝鮮女性の「皇民化」を図る女子教育を委嘱された淵澤能恵(当時56歳)を就かせ、名称も「韓日婦人会」と改めた。 彼女は婦人会の会長として週一回米国から帰った河蘭史、餘袂禮黄のような名士を招き懇談会、講演会を開き、後には「男女七歳にして席を同じゅうせずという古い思想と因習は打破しよう」と男性の講演者も招くなど、女性の啓蒙運動などで先駆的役割を果たす。 高宗の命受けて 1906年5月22日、嚴妃の後援で明新女学校を創立、高宗は彼女を校長に任命する。 「私は校長になる資格がございません。ほかに適任者を探してご下命くださいませ」 けれど高宗は彼女の再三の辞退を受け入れようとはしなかった。こうして彼女は開化期最初の女性校長になったのである。学監は婦人会総務職の淵澤能恵が受け持つこととなった。 人々は彼女を心、言、行、三徳を兼ね備えた女性校長と評した。そして一年後、生徒数は4名から50名に増えた。 1908年、彼女は学校の発展のため嚴妃から与えられた信川、載寧、坡州などの土地を元手に農場を経営、財団を設立する。そして寄宿舎を造り生徒には寝食を無料で提供したという。また学校、婦人会の客は直接自宅へ招き私財でもてなした。それに自分の誕生日や端午の節句には運動場にゴザを敷き、生徒たちと祝宴を催した。 1910年、彼女は学校付近の龍洞宮跡地一部を買い入れ校舎を拡張し、学校名を「淑明」に改称した。 彼女はいつも白いチマ・チョゴリを好んで着た。植民地下で学校行事には必ず総督府の高官らが参加したが、彼らはみな黒い洋服だった。彼女の白いチマ・チョゴリは、烏の群れの中にいる一羽の白鳥のようにひときわ美しく目に映ったという。 1925年(陰暦1月頃)、当時朝鮮日報記者をしていた崔恩喜が李貞淑校長を訪ねた時、口の重い彼女が出し抜けにこう言ったという。「私はうちの生徒らにわが民族の精神は日本と融合することはできないと説いている」。 死ぬ間際、彼女は学校から退職金として送られた現金一万円を淑明女学校の奨学金として寄付した。この寄付金で発展した奨学会は後に数多い人材を育て上げる。 1935年5月4日、享年78歳で逝った彼女の学校葬は一千名の教え子たちの見守る中、厳粛に行われた。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) 李貞淑(1858〜1935)。 1858年京畿道で生まれる。1873年に結婚するが1884年20代で寡婦となる。「貴族婦人会」会長、1906年には明新女学校(淑明女学校の前身)の校長に就任。以後30年間教育活動に従事。 [朝鮮新報 2006.3.13] |