〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜A〉 開城城、都全体を防衛 敵を撃退 |
平壌が手本 壮大な羅城 開城の歴史遺産と言えば、すぐ思い出されるのは開城城の羅城である。開城を訪れて初めて羅城を見たときの感動は強烈である。名峰・松岳山に向かって山陵や丘陵上に連なる壮大な羅城の城壁の光景に圧倒されながら、この城壁を営々と築いた人々や、羅城の築造を決意した太祖・王建の構想に思いをめぐらすことになろう。松岳山の名は、松が多い山として呼ばれてきたが、松嶽山とも表記。 918年に高麗を建てた王建は、その翌年に都を開京(開城)に定めた。王建が最初の居城として定めたのは、すでに王宮として築造されていた勃禦塹城であった。この城は、王建がクーデターによって倒した泰封国の弓裔が896年に築いた城である。その後、王建は城を改築して自身の皇城としたが、1009年から21年の歳月をかけて構築したのが羅城であった。これが今日、私たちが見る開城城の壮大な羅城だ。 23キロ、25の城門
開城市の文化遺産であり、開城市の歴史の特徴を示すシンボルは、王が住む宮殿だけではなく、開城の都市全体を城壁で囲み、外国の侵攻から守るための開城城の羅城である。 その羅城の城壁は、王が住む皇城の西北壁から23キロメートルの長さに達する。開城の羅城は、北側の松岳山の山並みから西方から南方へ、そして東側に連なる山陵や丘陵に連続して築かれたのであった。 このように築かれた羅城の北側の城壁と西側の一部は石で築かれ、そのほかは土で築かれた。今日見ることのできる西壁の底辺は、7〜8メートルもあり、城壁の高さは3〜4メートルであるが、それ以上の高さの城壁も少なくない。開城羅城には、大型の城門である東西南北の門をはじめとして、25個の城門が造られている。 ところで、王宮のみならず、都の街全体を防衛するための大規模な羅城をなぜ築くのであろうか。いや、なぜ築かねばならなかったのであろうか。
まさにこの時期は、高麗が建国され、飛躍し、強盛になった時期であるが、10世紀から14世紀に至る時期は、世に言う「北方民族の雄飛の時代」であった。東アジアにおいて契丹族(後の遼)、女真族(後の金)、モンゴル族(後の元)などが急速に強大になり、東アジアの諸族、諸国に侵攻し、略奪し、支配し、抑圧を加えた時代であった。 この時代は高麗にとって、北方民族に苦しめられる苦悩、苦難の時期でもあった。1231年8月末、モンゴルの大軍が高麗に侵略を開始した。侵略を受けた高麗の人々は、圧倒的な大軍をもって怒濤のように侵入してくるモンゴル軍に対して、抗戦の旗を高く掲げ、侵略に屈しない犠牲的な戦いを繰り広げた。 それをはっきりと語ってくれるのは、3度にわたる契丹による大規模な侵略と略奪に抗する苦渋に満ちた不屈の戦いである。第一次は993年、第二次は1010年、第三次は1018年である。契丹の侵略は、開城の市民をはじめとする高麗の人々に深い惨禍をもたらした。993年10月、契丹王聖宗率いる侵略軍は、40万を超える大軍をもって清川江を越えて侵攻したが、高麗軍によって阻止されると契丹は精鋭部隊を迂回させ、直接開京攻撃を展開した。1011年正月1日、開京に侵入した契丹は、王宮のみならず民家を焼き、欲しいままに財貨を略奪した。 破壊と略奪から守る
しかし契丹軍は、厳しい寒さと食料の欠乏に加えて、間断なく行われる高麗軍の襲撃に悩み、怯え、侵入後10日も持たずに開京から退却を始めた。退却する敵軍を追撃する高麗軍と、清川江で待ち伏せする高麗軍に挟撃されて契丹軍は壊滅した。高麗国家は、契丹軍を勝利のうちに撃退したが、この戦いで深刻な教訓を得た。それは、都・開京の中に侵略軍の侵入を許したために、破壊と略奪による甚大な損害を蒙ったことであった。この教訓から得たのは、王宮のみならず市街全体を守ることであった。 生前、王建がモデルとして見たのは、6世紀後半に築かれた高句麗の都平壌城であった。 今日の平壌市の中心地区であり、現在でも優れた歴史遺跡が集中する牡丹峰には、平壌城内の高台の指揮所であった最勝台や、北側指揮所の乙密台、北門の玄武門、内城の北門である七星門、北城の南門などがある。 平壌城は内部に王宮としての王城を持つだけでなく、平壌の都市全体を城壁で囲み、ふくみ持つ羅城であった。繁栄期には、21万5千戸を持ったと伝えられ、築かれた羅城の城壁の長さは23キロメートルにおよんだ。奇しくも開城城の羅城の城壁の長さも23キロメートルである。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天) [朝鮮新報 2006.3.15] |