〈朝鮮と日本の詩人-6-〉 三好達治 |
望の夜の月をまちがて/いにしへの百済の王が/江にのぞみ山にむかひて/うたげせし高どのの名は/この丘のうへにのこりて/秋されば秋の雨ふり/そばの花をりしも白き/畑なかにふるき瓦を/ひろはんとわがもとほりつ/しとどにもぬれし袖かな 上は、三好達治の第七詩集「一点鐘」(41年)に収められた「丘上吟」の全文である。この詩は「扶余迎月殿趾にて」という一行が詩題に付されているように、百済の王都扶余の古城趾を訪れた詩人の感懐を吐露した作品である。詩の大意は次のとおりである。 満月を待ちあぐねた昔の百済の王が、白馬江を眼下に遠く山を眺めながら宴会を催した高楼の名はこの丘に残っている。秋の訪れで秋雨がふり、時は今、そばの花がまっ白に咲き乱れている。その花畑の中で古瓦を見つけようと歩きまわっているうちに服の袖がすっかりぬれてしまった。 読んでわかるように、朝鮮に旅する詩人の旅情のにじみ出るような叙情詩であり、無思想な即興詩であるかのように思われる。 しかしこの詩は、深く読むと、単なるセンチメンタル・ジャーニー(感傷旅行)の産物ではないことがわかる。詩の素材となった迎月殿は近くにあるいまひとつの高殿送月殿と相対している。この高殿は百済滅亡のとき落花岩から宮廷の侍女百余人が白馬江に身を投じた愁嘆の場所である。達治は、もちろんこのような哀史を知っていてこの詩を書いている。そうしてみると、この詩は、百済滅亡の悲劇を朝鮮の植民地化という悲劇とがかさなり合っていると解釈することもできなくはない。牽強付会のようであるかもしれないが、これも詩の読み方の一つである。 植民地化された朝鮮への同情と軍国主義を称えたモチーフとがどこでどのようにつながっているのかを解明することは、萩原朔太郎から「かけがえのない二人目のない唯一最上の詩人」と激称された達治の詩人像を理解するうえで、一つの重要なポイントになるはずである。(「三好達治詩集」は、岩波、新潮、角川の各文庫版で出ている)(卞宰洙、文芸評論家) [朝鮮新報 2006.3.17] |