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〈人物で見る朝鮮科学史−6〉 古朝鮮から高句麗へ(下)

把手付椀(ソウル中央博物館蔵、出土地未詳)

 ギリシャ神話に、人間に火を与えゼウスに罰せられるプロメテウスの話がある。東洋の慈悲深い神様に対して、西洋の神様はどうも血なまぐさい気がしてならないのだが、それはさておき、この神話は火がいかに貴重なものであるかを物語る。実際、現代社会においてさえ火は、良きにしろ悪きにしろ重要な役割を果たしている。それを考えると古代人が火を得たというのは、人類史にとって決定的な出来事だったといえるかもしれない。

 金属加工技術はいかに強い火力を得るのかがポイントとなるが、であればそのノウハウはすでに確立されていた。それは製陶技術である。土器の起源に定説はないが、おそらく焚き火の後に土が固く焼き締められることを知った古代人が、粘土を原料にして土器を作るようになったのだろう。これは前回紹介した「自然冶金説」と同様であるが、というよりもむしろこちらが先で土器を作る過程で鉱石が溶けて金属を得たというほうが事実に近いのかもしれない。

把手付椀(倉敷考古館蔵、岡山県笹岡市新賀出土)

 古代朝鮮の土器は「櫛目文土器」と呼ばれ、羊歯の葉のような模様があり形も口が広く下にいくほど狭まる。古朝鮮になると「コマ型土器」と呼ばれ、模様はなく実用的なコマのような形をしている。また、材料も白土(カオリン)、長石、石英が主となり、質的には土器から陶器へと移行する。さらに、高句麗になると形がより洗練され釉薬も用いられるようになる。また、同じ技術を用いて瓦も焼かれるようになった。

 焼成温度も当初は約900℃ほどであったが、より硬質の土器あるいは陶器を求めて次第に高くなっていく。そのために火が上に昇っていくことに着目し、傾斜地に窯のようなものを築くようになり、それが「登り窯」へと発展していった。温度も1200℃以上となり、鉄も溶かすことができた。ここから原始的な溶鉱炉が生まれたと思われるが、実際、傾斜地に設置された高句麗時代の製鉄炉址が確認されている。

 現在、日本は世界でもっとも製陶業が盛んな国であるが、代表的な産地である瀬戸、備前、丹波、越前、信楽、常滑は、古代は「須恵器」の産地で日本六古窯と呼ばれている。須恵は朝鮮語の鉄を意味する「セィ」から名づけられており、その技術は朝鮮半島からの渡来人によるものである。彼らは登り窯を日本に伝えているが、であればそこから派生したと考えられる製鉄炉は当時の日本には存在しなかったことになる。実際、古代日本では鉄を朝鮮半島から輸入していた。その後、日本も鉄を国産化するが、それによって日本の古代史は大きく動くのである。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2006.3.19]