詩人・茨木のり子さんを偲んで、自分を売り渡さない潔さ 反骨精神みなぎる詩 |
一カ月前、何気なく古本屋に立ち寄った。 いつもそうだが、そこにはなつかしさに包まれた憩いがある。ずっと探していた本が見つかったときには、片思いの恋が実ったような喜びに浸る。棚を眺めていると、ある本にふと目がいった。茨木のり子著「ハングルへの旅」。 たしか20年前に一度読んだ記憶があるものの、内容はさっぱり覚えていない。友だちに貸してそれっきり。あらためてページをパラパラとめくりながら、なぜか棚に戻す気にはなれなかった。何か大切なものを読み落としたのではないだろうか。茨木のり子さんが伝えたかったことを、ちゃんと受け止めなくてはと、買うことにした。
(今にして思えば、偶然だとはいえ、あなたも詩を書く人なら、しっかり読みなさいと、ぼくを待っていたのかもしれない) 茨木のり子さんがハングルを学ぶ動機を、全部ひっくるめて「隣の国の言葉ですもの」と、さりげなく言っている。が、「強制連行の補償もしないし、従軍慰安婦の問題も、まだ解決していないでしょう。…なさけないです。自分が生きた50年ですから、なお、なさけない戦後50年」と、いちばんに考えているからでは、とぼくは思った。また彼女は「一人でできる罪ほろぼし」とも言っている。 50歳から朝鮮語を習い始め、その後、朝鮮との関わりをいっそう深める。朝鮮の童話や詩など、数多くの作品を翻訳出版する傍ら、南朝鮮の民主化のために闘う人たちを励まし支援もした。 茨木のり子さんは、演劇が好きで芝居のための戯曲を書き始める。台詞の中の詩の欠如を考えるようになり、そこで金子光晴の詩に出逢った。24歳から詩を書き、1953年に川崎洋とともに、同人誌「櫂」を創刊。「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」「倚りかからず」など、すぐれた作品をたくさん発表した。とくに、詩集「倚りかからず」は、現在も版を重ね、ロングセラーとして読み継がれている。この詩集が人々に愛されるのは、詩がまっすぐで、しなやかで潔いからだ。自分を売り渡さない毅然とした態度、社会へのするどい洞察と、手厳しい文明批評、単純な言葉の中にあふれるユーモアと人間味、まさに茨木のり子ワールドなのだ。
茨木のり子さんの詩の中で印象深く残っているのは、「七夕」「りゅうりえんれんの物語」「隣国の森」「あのひとの棲む国」だ。「七夕」は、在日朝鮮人を描いた詩として、衝撃を受けた作品だ。星を見に出かけた夫婦とばったり出くわした朝鮮人の不安と苦悩、夕涼みにきた者さえも尾行かと問う、問わなければならない恐れ、そのように追いやった日本社会への憤りと哀しみが綴られている。「あの人の棲む国」は、抵抗詩人尹東柱に憧れ、「若さや純潔さをそのまま凍結してしまったような清らかさ」に惚れ込んだ詩だ。ヨン様どころではない。「雪崩のような報道も ありきたりの統計も/鵜呑みにはしない」。尹東柱を愛する心は「わずかに光る尊厳」を、決して放棄しない茨木のり子のゆるぎない姿勢である。(死の間際までも京都・宇治の天ヶ瀬吊橋に尹東柱の記念碑を建てる運動に関わっていた) 日本の社会がどんどん右傾向に進もうとしている今、「なぜ国歌など/ものものしくうたう必要がありましょう…/私は立たない 座っています」。反骨精神みなぎる彼女の詩は、人々に勇気を与え、確かな生き方を示す。寂しくてメソメソしているぼくの耳にあなたの声が聞こえる。「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」(詩集「自分の感受性くらい」より)(李芳世、詩人) 茨木のり子さんは1926年、大阪生まれ。帝国女子薬専(現、東邦大学薬学部)卒。53年、川崎洋氏と詩誌「櫂」を創刊。その後谷川俊太郎、大岡信らを同人に加え、叙情詩の水脈を作った。50年代の「わたしが一番きれいだったとき」などの詩は、青春の時を戦争によって奪われた当時の女性たちを代表する声となっている。詩風は明るく、闊達。批評精神の旺盛な作品も目立つ。主な著作に「言の葉さやげ」「ハングルへの旅」「鎮魂歌」など多数。2006年2月死去。 [朝鮮新報 2006.3.19] |