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〈本の紹介〉 「自分自身への審問」

 いっきに読むには少々辛い本である。なぜなら、暴力と戦争に反対し、「万物商品化」に堕落した社会と人間たち、そして自分自身にたいして憤り、吼えてきた著者が、2年前、講演中に突然脳出血で倒れ、「沈黙の1年4カ月」を経て右手が使えないまま、記憶、想像力を搾り出すように紡いで書いた本であり、しかも昨年末には結腸ガンの手術まで受け、「遺書」をしたためるごとく「自分自身への審問」をまとめた本だからである。

 暗闇に手を差し出すような、読み込むにはやや勇気のいる本である。なぜなら、「脳出血の後遺症として右麻痺、歩行障害、感覚障害…加えるに腹部の癌」の著者が、死に直面し、死に魅入られながらさ迷う、幻の世と現し世が交錯する心の奥襞の回廊(第1章 死、記憶、恥辱の彼方へ)へと、読者を誘うからである。

 しかし彼は、やはり、したたかな、強靭な精神の持ち主。「無明長夜を独りでも歩けるとわれ知らず過信して」きた自らの不明に気づき、「死に目に遭ったからといって…自身の傲岸、過信、衒いを憎むけれども、いささかの頑迷は、この現世にあってはいたしかたなかろう」とひらきなおる。

 2004年に脳出血で倒れたとき、著者の脳裏に浮かんだのは「物言うな、かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」(詩人、中村稔)とのリフレインである(第2章 狂想モノローグ)。

 この辺りから読者は、「健常者には病者の内奥になかなか想像力が及ばないもの」との彼の悟りを聞き、9.11、アフガン、イラク戦争以来の米国の超弩級の暴力、自衛隊派兵、安手のシニシズムの空気、マネーゲームとIT成金、戦後60年などにたいする、病んだがゆえに「内」をより深く射抜いて語る、衰えを知らない「辺見節」に引き込まれていく(第3章 人の座標はどう変わったか 第四章 視えない風景のなかへ)。

 凄みさえもみせる「辺見節」は、昨年2月、「週刊金曜日」に連載して反響を呼び、今回、本書のために死への「寸止め」状態で書き加えた「第5章 自分自身への審問」である。読者にも、ぜひともこの時代と自身への「審問」に立ち会ってもらいたい。

 「辺見庸」「闘病」でパソコンを検索したら、偶然につぎのようなファンの熱い一文が出てきた。

 「たとえスパゲッティのように全身点滴の管に繋がれようとも手足が麻痺し『ろくに歩けず、書けず、右手で尻もぬぐえな』くともあなたには生きてほしいのですよ。あなたのその頭の中にある言葉の一番最後のひと言まで搾り出して書き付けて私に読ませてほしいのですよ。あなたには、まだまだこの世にいて抗い続けてほしいのですよ。そうすることが、あなたがこれまで書いてきた文章への責任と言うものです」

 辺見氏は3月8日付朝日新聞に寄稿し、「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」「小泉執政5年のいま、劇場主も観衆もメディアも静思すべきだ」と久々に吼えた。(辺見庸著、毎日新聞社、TEL 03・3212・3257)(総聯中央本部参事、金明守)

[朝鮮新報 2006.3.22]