〈本の紹介〉 「黒田清 記者魂は死なず」 |
ジャーナリスト・黒田清さんが亡くなった2000年の夏はことのほか暑い日が続いた。7月31日、葬儀の日、大阪は強烈な暑さだったが、約1500人の葬列が黙々と続き、闘いに明け暮れたその生に惜しみない哀悼を捧げていた。 入院先の病床のテレビで6.15共同宣言と北南首脳の抱擁と固い握手を観た黒田さんは、自らが発行する「窓友新聞」にこのことを喜び、心から祝福する記事を書いた。これが絶筆となったのだが…。 本書は息を引き取る最期の瞬間まで、全身で闘い続けた黒田さんの波乱の生涯を、半世紀にわたって書きつづられた日記とぼう大な資料をもとに描く初の伝記である。 弱者への限りない共感と反骨精神、威張る者、ごう慢な権力、差別のシステム、戦争勢力を徹底的に憎み、容赦ない怒りのペンを向けた黒田さん。骨太のジャーナリスト活動を支えた人間味ある「生きざま」が、本書によって蘇ったのは、望外の喜びである。 黒田さんは、76年から80年代半ばまで、読売新聞大阪本社社会部長として最強の社会部記者集団「黒田軍団」を縦横に動かし、次々に特ダネと大ヒット連載を打ち出していた。この時代の忘れがたいエピソードがある。巨人対広島戦で、「朝鮮帰れ」という民族差別の汚い野次が浴びせられた張本選手が怒りを露にしたことがあった。黒田さんは新聞に、こう書いた。 「どんなに大金を積まれても、人間としてしてはいけないことがあるのではないか。母に対する愛情とか国に対する誇りとかいうものは、人間の尊厳にかかわる問題であろう。そういうものに対して侮辱を加えられたとき、怒らないのはおかしい。それはプロ野球の選手だからというようなことではなく、人間としてのことなのだ」と。 時代の歯車は次第に逆行しつつあった。軍拡路線を打ち出した中曽根政権や新聞社の上層部との対立は、避けられぬものとなり、87年、同社を退社。 しかし、黒田さんの記者人生はここからが真骨頂を示す。新しいジャーナリズムの在り方に挑戦し、読者との濃やかな交流を柱にした大阪発のミニコミ紙を発行し、世の中を変えようと試みたのだ。 多くの読者の熱い支えを受けて東奔西走する日々だったが、97年すい臓がんを患った。大手術に耐え、現場復帰してからは、もっと、戦争勢力や右傾化の流れに抵抗する動きを強めていった。戦争中、軍部に抵抗もせず終わった記者の二の舞だけにはなりたくないとの思いが強かった。 本書には記述されていないが、98年、東京で開かれた「日本の戦時下での強制連行に関するシンポ」では、パネラーとして発言し、「エセ学者、エセ漫画家、エセ政治家らの主張がアメーバーのように日本の隅々まで浸透している」と警鐘を鳴らし、「侵略の事実まで否認し、新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)を制定し、新たな戦争をしかけようとしている勢力と闘わずして平和を獲得することはできない」と力強く訴えた。 生前、記者は取材を通して黒田さんと親交を結んだ。朝鮮学校生徒への暴力事件が多発した時には、日本の若手の記者たちに朝鮮問題を見る視点を教えてほしいと、講演を頼まれたこともあった。誰でもその人柄に触れると、一肌脱がなきゃ、と心底思わせる人であった。いつも、笑顔を絶やさず、闘いに人々を巻き込んでいった。きな臭い時代に体を張って立ちはだかった稀有なジャーナリストだった。(有須和也著、河出書房新社、TEL 03・3404・8611)(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.3.22] |