英のドキュメンタリー映画 「奇蹟のイレブン」を観て、サッカー超えた人間賛歌
秀逸な手法で「過去」と「今」描く
68年W杯に出場した朝鮮チームのメンバー
6月にドイツで開催されるサッカー・ワールドカップ。まだ3カ月も先だというのに、気の早い日本のスポーツ新聞には「一次予選突破国は?」「ベスト8は?」「優勝国は?」などの記事が連日掲載され、中には「日本のベスト4入りも夢でない」などという、多分に「主観的欲望に満ちた」記事まで登場している。
南のスポーツ新聞も同様で、とくに前回の大会でベスト4となっただけに、こちらは「今回は優勝も夢ではない」とか、「今大会では無理でも南北統一チームならば、次大会では可能性大」など、より長期的(?)な記事まで掲載されている。
いってみれば、本番を3カ月前にして「前哨戦」はすでにはじまっており、これから日をおってますます過熱化していくということであろうか。
昨年、日本でも公開され最近、DVDが発売された「奇蹟のイレブン」(現題は「THE GAME OF THEIR LIVES…」)は、一般的にジャンル分けすれば「サッカー映画」であり、むろんサッカーというスポーツのすばらしさ、魅力が描かれているのだが、そう思って見た人は心地よく、納得のいく「違和感」を感じるに違いない。なぜなら、実はそこに描かれているのは「人間」であるからだ。
「奇蹟のイレブン」は、今から約40年前の1966年、イギリスで開催された第8回サッカー・ワールドカップに出場し、誰もが予想しなかったベスト8の栄光に輝いた朝鮮チームの活躍と、栄光の選手たちのその後を描いたドキュメンタリー映画だ。
監督のダニエル・ゴードンはこのドキュメンタリー製作のために朝鮮側と4年間にわたって粘り強く交渉して当時の映像を入手、それにイングランド大会の映像、そして現在の選手たち、朝鮮の今を撮影したフィルムを加えて再編集し、まさに記録映画ではない「ドキュメンタリー映画」を完成させている。
対イタリア戦(66年)
「サッカー・ワールドカップ大会史上、もっとも劇的な試合」として語られ、その一方、イタリアのサッカーファンにとっては「もっとも屈辱的な試合」となっている、一次予選での朝鮮対イタリア戦を中心に、映画は「奇蹟のイレブン」のその時と今を、淡々と描きだしている。そこにはこの種のドキュメンタリーによく見られるおしつけがましいナレーションも、騒がしい音楽もない。まさに淡々としているのだ。
「映像はウソをつかない」といわれる。そうかもしれない。
しかし正確にいえば「映像にウソをつかせることはできる」のだ。
映画は映像のみで成り立つものではない、いわゆる総合芸術であり、とくに映像そのものが「主人公」となるドキュメンタリー映画の場合、ナレーションや音楽などでいかようにも映像を処理、再編集することが可能だ(その代表例をあげるならば、日本のテレビで流される、意識的にトーンを低めたナレーションとおどろおどろしい音楽で構成された、朝鮮関連の映像だ)。
この作品には、当時の時代背景(朝鮮戦争から13年。冷戦のまっただ中でむろん国交もなく、イギリスにとって「敵国」の選手らをどう迎えるのか、国家、国旗、国名をどう扱うかは大問題であった。その舞台裏、FIFAの対応など)、大会での朝鮮チームの奇跡的活躍、手作りの朝鮮の国旗を手に熱狂的に応援するイギリス市民の姿を貴重な当時の映像で描くとともに、現代の朝鮮を撮影した映像(平壌の街並と市民の姿、こどもたちの踊り、大規模なマスゲーム、チュチェ思想塔、平壌地下鉄などなど)が絶妙に、そして効果的にインサートされる。インサートされる映像にも、客観的な説明のみのナレーションが簡潔に付け加えられるだけであり、音楽も同様だ。ここでも監督は淡々と「過去」と「今」を描いてみせるだけだ。
その映像処理と編集は巧みで、「過去」と「今」の映像の間にある40年という歳月はまったく感じさせない。
しかしその淡々と写し出される「過去」と「今」の映像は、見る者をして「奇蹟のイレブン」が「伝説」と「奇蹟」を生み出した「秘密」を実は雄弁に物語っており、そしてその「秘密」が現代の朝鮮にも脈々と息づいていることを描いてみせているのだ。
イングランド大会後、選手らが「処罰」された、「生存している選手はいない」、などなどの「噂」がまことしやかに流された。この作品の最後に選手らが「(そのような「話」を)全面否定した」という「字幕」が写し出されるが、選手らの「全面否定」を裏づける「伏線」が作品の前半部分にちゃんと引かれているのだ。それも淡々と、客観的に。
サッカーを題材にして「人間」を、見事に映像そのもので語って見せたドキュメンタリー映画の秀作といえよう。(崔錫龍、「統一評論」編集長)
[朝鮮新報 2006.3.29]