〈人物で見る朝鮮科学史−8〉 広開土王とその時代(上) |
紀元前277年の建国といわれる高句麗は、676年に新羅・唐の連合軍によって滅びるまでの約1000年間、東方の強大国として君臨した。東明王こと高朱蒙を始祖として28代の王を数えるが、その最盛期は19代の広開土王(在位391〜412年)とその後を継いだ長寿王(在位413〜491年)の時代である。
18歳の時に王となった広開土王は、強力な軍事力を背景に遼河を境とする中国東北地方および朝鮮半島の北部にまでその版図を広げた。当時の首都であった中国吉林省集安にはその功績を記した石碑があるが、これが有名な「広開土王陵碑」である。当時の状況を伝える碑文は実に貴重な史料であるが、判読できない個所もありその解釈をめぐって熱い論争が繰り広げられていることはよく知られている。陵碑を建立した長寿王はその名のとおり97才まで生き、領土を朝鮮中部にまで広げて427年には平壌への遷都を果たしている。ちょっと横道にそれるが現在、済州島で広開土王を主人公とした「大王四神記」というドラマの撮影が行われているそうである。主人公に扮するのはペ・ヨンジュンで古代史最大のヒーローをどのように描くのか、彼のファンならずとも期待したいところである。
さて、2004年に高句麗の遺跡がユネスコの世界遺産に登録されたことは記憶に新しい。その対象となったのは平壌近郊の古墳群と集安周辺の都城関連の遺跡および陵墓郡で、そこには当然広開土王陵碑も含まれている。一般の関心が高いのは壁画古墳であるが、確かに1000年以上の時を経ても色あせず高句麗の高い文化水準を伝える壁画は、考古学的にも美術史的にも世界遺産に相応しい。むろん科学史的にもさまざまな知見を得ることができるが、鉄製の鎧をまとった兵馬をはじめ彼らが手にするさまざまな武器類、そして鉄を鍛える神や車輪を造る神の壁画は、それらが古代社会においてどれほど重要なものかを如実に物語っている。さらに、厨房や井戸、車庫や牛舎、狩猟図や曲芸師など当時の生活を伝える壁画は、まさに高句麗時代のパノラマといえよう。 そして、なによりも注目したいのは石室天上に描かれた天文図で、これまで確認されている古墳は徳花里、真坡里、舞踊塚、角抵塚など21基に上る。これらの天文図は「星宿図」とも呼ばれるが、星宿とは星座のことで天空を四宮(東西南北)に分けさらに7等分して28宿を描く。たとえば、「昴)」もその一つである。中国の史書「魏志」は、高句麗について「十月を以て天を祭る。国中大会す」と記している。すでに、古朝鮮の支石墓に刻まれた天文図に天への信仰が見てとれるが、それが天祭思想となり高句麗天文学の発展を促したといえるだろう。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.4.1] |