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〈朝鮮と日本の詩人-7-〉 丸山薫

 「いつ頃か、姫は走っていた。姫のうしろを魔物がけんめいに追っていた。彼女は逃げながら髪に挿した櫛を抜いてほうった。櫛は魔物との間に、突兀として三角の山になった。魔物はその山の陰にかくれた。そのまま姫は遠く離れた。

 やがて山の嶺から魔物が駆けおりてきた。そしてまた少しづつ姫は追い付かれそうになった。姫は腰につるした巾着を投げた。巾着は蓮の花の咲き乱れた池になった。魔物はそのむこう汀にいて、泥に足をとられて歩きにくそうにわたり始めた。そのまに姫はまた彼をひき離すことができた。

 が苦もなく魔物は迫って来た。こんどは姫は片方の靴を脱いで投げつけた。可愛い靴は魔物の鼻にあたり、逆さになって地に落ちて崖に変わった。魔物が舌打ちしてこわごわ、崖を這いおり始めた。そのまに彼女はまた少し離れた。

 しつこく魔物がまた追いすがろうとしていた。姫は上衣の青い紐をちぎって捨てた。それはうねうねした河になった。魔物が筏を探しているまに姫はいくらか逃れることができた」

 右の散文詩は、丸山薫の「朝鮮」の前半の全部である。「姫」が朝鮮、「魔物」が日帝の暗喩であることは容易に推測できるし、作品そのものを理解するのもむつかしくはない。詩の後半は姫の「最後の部分を覆った薄い布きれ」が大洪水となってあらゆるものを呑みつくすという表現で、朝鮮が完全に植民地化された以後の悲惨な現実を描く。

 父が伊藤博文に信任されて統監府の警視総監となったので、薫は1905年5歳の時から4年間ソウルで暮らした。その時期について彼は「私の心を暗くしたものは、日本人の大人たちのこの国の民衆に対する態度であった。…この国の人間を見下げ、酷使し、時には手痛い目にあわせるのを見た」と回想している。こうした少年時代の心の傷がモチーフとなって、1937年に総合雑誌「改造」に発表されたのが「朝鮮」である。詩人の小野十三郎はこの詩が丸山薫の「絶唱」であると賛評している。中公文庫「日本の詩歌」二四巻に収録されている。(卞宰洙、文芸評論家)

[朝鮮新報 2006.4.7]