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〈人物で見る朝鮮科学史−9〉 広開土王とその時代(中)

キトラ天文図(奈良文化財研究所提供)

 「天文」とは天空で起こる現象を意味する言葉で、それと類似の地表水の存在と運動変化を意味する「水文」や「人文」という言葉もある。天文学とは文字通り天文知識が体系化されたものであるが、留意しなければならないのは現代人が考えるところの天文学は近代以降のニュートン力学に基づく科学分野で、古代天文学はそれとは性格が異なるということである。

 東アジアの天文学は昔から「帝王の学」といわれるが、それは天文が国家と王の安危と関連すると考えられたからである。ある種の占星術であるが、西洋の占星術が個々人の運命を占うこととはきわめて対照的である。また、星座の名前も西洋は動物が中心であるが、中国や朝鮮では社会制度と生活を色濃く反映し、たとえば兵士たちの市場である「軍市」があり、「厠」もある。

 その性格上、日食や彗星、流星などの非日常現象の観測が重要となるが、実際「三国史記」「三国遺事」には、高句麗における11回の日食と10回の彗星観測の記録がある。また、640年の「太陽の光が弱くなり三日後に元に戻った」という太陽黒点と思われる記述や、555年の「昼に太白星(金星)が見えた」という記述は、天文観測が日常的に行われていたことを示唆する。さらに1454年に完成した「世宗実録地理志」には、平壌近郊に高句麗の「瞻星台」址があると記されている。

徳花里2号墳(6世紀前半)の天文図

 さて、天体の異常現象を観測する際、その前提となるのは通常の天体についての知識である。すなわち、恒星の位置を正確に記した天文図が必要となるということである。事実、高句麗には4世紀末〜6世紀初に作られたとされる1467個の星が刻まれた石刻天文図があった。残念ながら現物は唐、新羅連合軍との戦渦の中で大同江に没したが、驚くべきことにその拓本がほぼ1000年間も保管され(その詳細は不明)朝鮮王朝の太祖・李成桂に献じた人がいた。それを元に1395年に作られたのが有名な「天象列次分野之図」である。そこには、この天文図の由来とともに、現在の星の位置とのズレを校訂し復刻したことが明らかにされている。そのズレは地球の歳差運動によるものであるが、そこから逆算して高句麗石刻天文図の製作年が推定されたというわけである。

 現存する最古の本格的天文図は、近年、話題となった奈良のキトラ古墳の天文図で、それは宮島一彦・同志社大学教授(東アジア天文史学)によれば、北緯39度おそらく高句麗の首都であった平壌付近で観測された可能性が高いと指摘している。非常に興味深い指摘であるが、高句麗石刻天文図と何らかの関係があるのか、そして、そもそも「キトラ」とはいったい何を意味するのか、いずれ稿をあらためて考えてみたい。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2006.4.14]