〈生涯現役〉 夫亡き後、事業を守りぬいた−李伸子さん |
砂利採取など堅実な事業を展開して、商売も順調で、脂がのっていた頃、病魔に倒れた夫・安千一さん。今年は没後10年になる。いまは、琵琶湖のほとり、比叡山の安家の広々とした墓地に眠る。 公私ともに、良きパートナーとして支えてきた妻・李伸子さんは、夫が愛でた1000坪の庭園に今年も薄いピンク色の花を咲かせた枝垂桜を見ながら、こう語った。 「ガンという最悪の病魔に襲われた最期の時に、『わしとおまえは同志じゃ』と言ってくれた夫の言葉が忘れられない。何でも相談というより、自分で決めたことをぐいぐいやってきた夫と、一言では言えぬ格闘をしてきた。実にスケールが大きく、一度決めたことはテコでも曲げなかった。ぶつかったことも数知れぬほどであるが、それでも、おもしろい、目が離せない人だった」 家計は火の車
人生苦あり、楽あり。日本による朝鮮半島への植民地支配によって、離農離郷をよぎなくされ流浪の民だった夫。地縁、血縁もない異郷で、必死に働き、商売を興し、わが子4人を育てた。その夫の商売の片腕となり、家庭を守り続けた妻。二人の性質は水と油ほど違っているかのように見えた。商才とエネルギーに恵まれた気難しい夫と、誰にでも心を開き、ひまわりのように明るい妻。この二人だったからこそ、まだまだ民族差別が根深い時代にでも、疾風のような速さで、事業を大きく広げることができたのだろう。 夫の故郷は全羅南道宝城郡。まだ、幼い頃、父とともに渡日、滋賀県愛知川に腰を据えた。やがて成長した千一は、1951年、18歳で、父と共に砂利採取事業を始めた。伸子さんと結婚したのは、それから3年後。「二間だけの借家に私が転がり込ん」で、新婚生活がスタートした。一間には夫の両親、兄弟5人が暮らし、もう一間が新婚夫婦の部屋。やがて、子どもが5年の間に双子も含む4人に増え、近くの6畳一間の家を買って、独立することになった。
「お金なんて全くなくて、3年間は、近所の店で、米、味噌などあらゆる生活用品を掛けで買って、しのいだ」。子どもを産むときの入院費もなかったし、夫の事業の資金も何もなかった。借金のために質屋通いし、ツケで物を買って、家計は常に火の車。 そんな暮らしに少しずつ余裕が生まれたのは、東京オリンピックが終わり、日本経済が高度成長期を迎える頃。67年にテレビを買って、70年頃に家電製品が次々と増えた。まず、炊飯器、洗濯機、冷蔵庫の順だった。 一方、夫の家族は62年、一家で帰国。その後も、夫婦は、帰国した家族の暮らしぶりに心を寄せ、気づかってきた。 経済発展の基礎 伸子さんには密かな自負心がある。夫や義父が始めた砂利採取事業こそ、日本経済発展の礎を切り開いたのではないか、という心意気。その頃のやり方は原始的だった。河原に網をしかけておくと細かい砂利が留まる。それをスコップでいっぱい河原に積んでおく。貯まってからトラックで現場に運ぶという、作業の繰り返し。夫は運搬先の工事現場に人がいなくても、きちんと分量を守り、規定を正確に守った。納品期日を厳守した。それだけではなく、たとえば、1万円分の仕事を請け負えば、必ず1万5000円分の仕事をした。競争に勝って上に這い上がろうとすれば、誠実な仕事ぶりで、業者の信用を勝ち得るしかないというのが、夫の譲れぬ信念だった。 民族心や風習守る
地道な努力が実り、60年代後半になると、近江の主要道路のほとんどは、夫の会社が関わるほどになった。会社の規模が拡大しても、夫は給料日や法事の日には、従業員や家族を家に呼んで、みんなでごちそうを食べて、楽しく語らうのが大好きだった。数十人分の料理は、品数も多く、てんてこ舞いだったが、伸子さんはいっさい手抜きせず、朝鮮料理や刺身、野菜の煮炊きなどバリエーションに富むごちそうでみなをもてなした。夫の口癖は「あるだけ出せぇや」「朝から晩まで竈の火を絶やすな」だった。「とにかく、ケチなことは嫌いで、困っている人を見ると放っとけない人だった」。民族心や風習を守ることにも心を砕いた夫は、ウリハッキョへも惜しみない援助を行った。 事業の拡大によって、多忙を極めるようになった夫が、やがて病魔に倒れるという悲劇に襲われのが、96年。その後、父から薫陶を受けた長男が立派に後を継いだ。しかし、夫と二人三脚で創業し、困難を克服してきた伸子さんが、今も要の存在として、要所要所に目を光らせる。来月、70歳を迎えるとは思えないほど若々しく、頼もしい「肝っ玉母さん」である。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.4.17] |