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〈国家のエゴが生命を蹂躙するとき(上)〉 強制連行の人々

 はじめに

 私は、1940年(昭和15年)9月生まれの65歳、熊本県球磨郡相良村に建設されようとしている川辺川ダム建設反対運動に携わっている者である。私がこの運動に深く関わってから、すでに6年が経過しようとしている。

 かねてより、マスコミ報道などで、地球的規模で急速に進む環境悪化を見聞きし、また、3年半にわたって球磨川漁協の職員であったことから、自分にできる環境保護について足元から運動を広げたいと考え、日々奔走してきた。

 国家権力の暴走

 国が、その権力を誤った方向に行使するとき、そこには理不尽な犠牲者が生じる。日本は今、国家プロジェクトとして、川辺川ダムや、諫早湾干拓事業など、多くの国民や学者、研究者が不必要だという大型公共事業を遮二無二進めている。私は全てのダム建設に反対といっているのではない。必要な公共事業はあると思う。しかし、1965年(昭和40年)以降、日本列島は、山も川も海もコンクリートで固められてしまったと言っても過言ではない。その結果、豊漁だった川も海も絶滅寸前の状態に追いこまれている。国民の大半は、日本の美しい自然や環境を破壊するダム建設に強く反対している。川辺川ダムに関して言えば、当初の目的であった発電も、利水も目的より落ち、治水面では、ダムが必要どころか、かえって、ダムがあるほうが危険であるという調査結果も出ている。それでも、国は「流域住民の生命と財産を守るため」と称して、ダム建設推進の立場をかたくなに崩していない。ダムを造った結果、流域住民が被害を受けた例は全国的にたくさんある。何より自然は、壊したら元に戻すのはほとんど不可能だ。

 国が、理性を失い、愚かなエゴにまい進するとき、そこには大きな犠牲が伴う。民主主義国家に変わった戦後の日本だが、権力者の姿勢は第2次世界大戦前から、本質的には何も変わっていないのではないだろうか。

 消え去らない悪夢

力強い反ダムの闘いによって守られた川辺川

 先日、長女から、店に来られるお客様の中に、朝鮮料理店を経営される奥様がいらっしゃるという話を聞いた。

 私はハッと思い当たった。私の脳裏から忘れようとしても、決して忘れることのできない思い出があるからだ。

 話を聞いて早速、その朝鮮料理店に行き、支配人をされているSさんを尋ねた。名刺交換もそこそこに、Sさんへ「お国の言葉でアイゴーチョゲタ≠ニ言うのはどのような意味なのですか?」と質問した。Sさんは「アイゴーは悲しいと言う意味ですね。チョゲタという言葉は国にはありません。チュゴッタと言うのではないですか。チュゴッタでしたら、その意味は、自分は死ぬ。自分は苦しい。そう言う意味ですね」と丁寧に答えられた。私が61年前に聞いた、断末魔のあの声の意味をやっと知りえたと思い、感慨を新たにした。

 故郷での体験

水質日本一といわれる川辺川の景観

 私は、福岡県粕屋郡志免町にある、炭坑のハーモニカ長屋で生まれ育った。ここの炭坑は「第7抗」と呼ばれていて、第2次世界戦中は、正式には「志免海軍燃料所」と呼ばれていた。父は海軍士官で当時は応召されており、私の脳裏には復員してくるまで父の面影は残っていなかった。

 数え年4歳半ころ、炭住街で同じ年頃の友だち数人と遊んでいた時、炭住街の西側に事務所があって、そこは、事務所の東側に、棟続に半円形の「ドーム」と呼ばれる約50畳ほどのコンクリートの建物があり、事務所は平屋の木造作りだが、外側にあるドームは、動物園のように鉄格子が天井高くはめこまれていて異様な風景だった。

 当初、炭住街からはドームのエコーで「ワーン」「オーン」という声がこだまして聞こえていた。遊びに熱中していて、最初は何の音か、たいして気にもならなかった。

 しかし、その音が幾日か続いたある日、とくに強く感じられる日があり、誰が誘うでもなく5〜7人くらいの同年代の友だちと、100メートル位離れたドームへ駆け出した。途中10段くらいのコンクリートの階段があって、ワイワイ喋りながら駆け上って走っていった。

 ドームに到着して私たちが見たものは、それは、凄まじいまでの恐怖と戦慄の光景だった。(やつしろ川漁師組合組合長 毛利正二)

[朝鮮新報 2006.4.24]