〈国家のエゴが生命を蹂躙するとき(中)〉 生涯の記憶 |
炭住街の通称「ドーム」の中には、炭塵に汚れ、男女の判別ができない、20名近くの人たちが両手を後ろ手に縛られ、数珠つなぎに座らされていた。座った男女は、全身刺青の男の前に、一人ひとり後ろ向きに引き据えられていた。
男の右手には大人の小指ほどの鉄の鎖で作った、約1メートルの取っ手のついた鞭が握られていた。男の鞭が唸りをあげ、座った男女に飛ぶと、鎖の鞭が骨と皮に痩せた身体に食い込んで「グワシャッ」と音がし、その場で二〜三度、池の中のミズスマシのようにキリキリ舞をしながら、異国の声で「アイゴー、アイゴー、アイゴーチョゴッタ」と叫んで、のた打ち回るのだ。 男は無表情に次から次へ、同じ行為を繰り返していく。最後の一人が打ち据えられた時には、ドームは異国人たちの断末魔の声と血の海で充満していた。 あまりの酷さに、私の瞳孔は開いたまま、凍りついたように鉄格子を握っていた。泣くことも叫ぶこともできない。体が硬直して動けないのだ。見に行った全員がその場に釘づけにされたままになっていた。 どのくらいの時間そうしていたのかもわからない。4歳かそこらの私にとって、人生で最初で最後の恐ろしい体験だったのだ。 アイゴーチョゴッタ それ以来65歳の今日に至るまでの61年間、この「アイゴーチョゴッタ」の悪夢にうなされて生きてきた。
米空爆機B29の大編隊が博多を空襲したエンジン音の記憶と、強制連行者への蛮行は、生涯の記憶として私の脳裏から離れることはない。 日本の権力者たちが、どのように言い訳をし、戦争は終わったと言い繕おうと、私の脳裏からは「アイゴー、アイゴー、アイゴーチョゴッタ」の呪わしい叫び声は、消え去ることはない。 今は炭坑事務所もドームも跡形もない。残っているのは、立坑が巨大な墓標のように存在感を示して躇立しているだけだ。どれほど多くの人々の悲しみや苦しみが、立坑の中に歴史とともに葬り去られてきたのだろうか。 どれほど多くの人々が日本という異国の地で、肉親や兄弟、姉妹のことを思い、望郷の念にかき乱されながら、死んでいったことだろうか、その遺族の苦しみに思いを馳せるとき、Sさんは、「第二次世界大戦はいまだ終わっていません。38度線は今も続いています。日本が世界の人々から真に友人として認められようとするなら、歴史に頬かむりをしてはいけない。現実に起こったことをありのままに認め、謝罪しなければならない。アジアの20億の民衆を傲慢に睥睨し続けるかぎり、アジアは絶対に日本を許さないでしょう。戦争はまだ続いているのです」と話した。 私が長い間抱えてきた疑問は、「アイゴーチョゴッタ」の意をようやく理解できたことで解決した反面、「苦しい、死ぬ」と叫びながら日本人に鞭打たれていた隣国の方々を思うと、さらに重苦しい記憶として蘇った。 私は、アジアの同志に訴えたい。第二次世界大戦中の、隣国に対する蛮行を、真摯に反省、謝罪しない日本国に住み暮らすかぎり、私の中でもあの戦争は未解決のままだ。 現在、川辺川ダム反対運動に奔走する毎日だが、この運動に深く関われば関わるほどに、日本という国が、いかに簡単に個人の生命、権利を蹂躙する国家であるかを、60年前の記憶とダブらせて、考えずにはいられない。 60年前の、この国の仕打ちを目の当たりにした、あの記憶を新たに、これ以上、この国の愚かな指導者のエゴによって、人の命、権利、また、かけがえのない環境というものを、脅かされることのないよう、終生、川辺川ダム建設を阻止するための決意を深くしている。(やつしろ川漁師組合組合長 毛利正二) [朝鮮新報 2006.4.26] |