〈人物で見る朝鮮科学史−10〉 広開土王とその時代(下) |
中国・吉林省集安に、広開土王の遺志を継ぎ高句麗の領土を拡げた長寿王の墓といわれる「将軍塚」がある。底辺約34メートル、高さ約13メートルの7段からなるピラミッドのような積石陵墓である。むろん世界遺産にも登録されているが、この遺跡から知られるように高句麗の科学技術を語るうえで欠かせないのは、その優れた建築技術である。
例として、まず大城山城、安鶴宮を取りあげてみよう。 かつて高句麗の首都であった平壌の防御城−大城山城は、朱雀峰、将帥峰など6つの高い峰を連結した楕円形の山城である。花崗岩、砂岩、頁岩などを四角錐に加工し、上にいくほど小さい石を積んでいる。城壁の高さは4〜5メートル、全長7076メートルにもなる朝鮮随一の山城で、その築城技術は百済や新羅はもちろん日本にも影響を与えたといわれている。 大城山城を背後に築かれた王宮が安鶴宮である。三国時代の宮殿はその位置さえもわからないものが多いが、安鶴宮に関しては全面的な発掘調査が行われ貴重な史料となっている。一辺622メートルの四方を土壁で囲み、南には3つ、東西北にはそれぞれ1つの門があり、四隅には角楼が置かれていた。52の建物跡があるが、中宮、東宮、西宮、南宮、北宮の5つの建築群をなし、それらを結ぶ回廊や庭園跡も確認されている。敷地が東京ドーム約8個分という壮大さは、さすが高句麗の王宮といったところである。
また、高句麗の建築について述べる時、寺院も欠かせないが、とくに定陵寺、金剛寺が有名である。そして、それが日本の飛鳥寺の一塔三金堂式に影響を与えたことは周知の事実である。さらに、興味深い遺物に大同江にかけられた木造の橋がある。「三国史記」によれば412年に建設されたもので、1981年にその遺物が発掘された。それは安鶴宮対岸の砂の下2〜3bに埋まっていた骨組で、長さが8〜10メートル、幅38センチ、厚さ26センチの栗の木の角材である。それを基に専門家が推定したところ、全長375メートル、幅7メートルにもなるという。施工においても鉄釘や鎹を使用せず、木材を組み合わせてつなぎ、また「ありさし」など高い技術が発揮されている。 さて、高句麗の建築技術に関していくつかの例をあげたが、その際に必要不可欠なものが長さの基準、すなわち物差しである。長さ、容積、目方を「度量衡」と呼ぶが、その基準を制定することの重要性は現在でも同様である。高句麗のさまざまな遺跡の分析から約35センチの単位長が確認されており、「高句麗尺」と呼ばれている。日本では「高麗尺」と呼び、飛鳥寺や法隆寺の建立に用いられたといわれている。ただし、現在まで現物は確認されておらず「幻の高麗尺」となっている。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.4.28] |