〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜B〉 満月台と南大門 |
開城を訪れた人は、まず満月台に案内されるだろう。古都・開城の顔でありシンボル的存在であるばかりでなく、過ぎ去った華やかな歴史の追憶を鮮やかに示してくれる。空を突くようにそびえ立つ名峰・松嶽山のゆるやかな南麓に展開する宮殿跡にたたずんでみるとき、私たちは1000年の古都に想いを馳せることができるであろう。
満月台は開城市の松岳洞にある。入口から満月台の正面である会慶殿に向かう。眼前に視界を遮るように築かれているのは、大きな4つの石段が等間隔に並ぶ丘陵のような巨大な台地である。階段を登ってみると急に視界が広がる。919年、名峰・松岳山南麓のゆるやかな斜面に、華麗にして雄壮な王宮が築かれた。この王宮を人々は「御殿」とか「お館」などとさまざまに呼んだ。これ以前の王建の居城は、896年、王建によって滅ぼされた泰封国の弓裔が住んでいた城であった。満月台の王宮は、919年の時から13世紀の中頃、モンゴルの侵略によって江華島に都を遷した約40年間を除いた高麗王朝が存続した1394年までの全期間、高麗の王宮であった。
高麗王宮の広さは、125万m2に達する広大な王宮であった。王宮は、宮城とその南側に位置する皇城に分けられる。宮城だけの広さだけでも39万m2に達した。王の宮殿がある宮城と、国家の中央官庁がある皇城をあわせた高麗王宮の外側城壁は、それ以前の勃禦塹城の城壁をそのまま利用したのであった。皇城の正門は東側にあるが、それを光化門と呼んだ。それ以外にも多くの城門が築かれた。 満月台の特徴は、建造物の基礎である築台を高く積み上げながら、傾斜面に沿って建物群をグループごとに分け、それらを階段式に配置していることである。このため建物の屋根が層ごとに重なり合って見え、壮麗な景観美を醸し出している。
満月台の中心的建築物である会慶殿、長和殿、元徳殿などの見事な築台と、その配列をみるならば、それらが壮麗な建築群であることが理解されるであろう。会慶殿の築台の列を見るならば、高さ7〜8メートルの石段の階段も置かれていたことがわかる。会慶殿跡を見るならば、東西約60メートル、南北約100メートルの回廊によって廻らせていることがわかる。満月台の中心の東側には、王の太子たちが住む東宮跡としての満月台があり、西側には乾徳殿跡、寝殿跡などの多くの建物が配置されていた。王宮跡としての満月台には、高麗時代の宮城制度と建築技術の高さ、王宮の規模と配置、建物の平面構造と建築材料などを見るならば、高句麗を継承した高麗の人々の志向と感性がよく理解できる。
南大門は、高麗の末期から朝鮮王朝初期にかけて建造された開城城の南門である。開城市の現在の北安洞にある。1391年から93年にかけて開城城の内城が築かれたが、その南門として建てられた。内城には本来、7つの城門があったが、現在は、南大門だけが残されている。朝鮮戦争の時の1950年12月、米軍の爆撃によって焼失したが、停戦後の1954年、いち早く開城市民によって現状通りに復元された。石築の築台の上に虹のように楼門が建てられた。 その楼門には、丹青が美しく描かれているばかりでなく、建てられたエンタシスの柱と、曲線を描く屋根が一体となって、見事な建築の美しさを示す。門楼は、前面13.63メートル、横7.96メートルである。柱は石柱の上に木柱を建てている。 この南大門の門楼には、演福寺の鐘がある。1346年に造られ、平壌鐘、江原道の上元寺、慶州の奉徳寺、忠清南道の聖居寺などの鐘と共に、名高い鐘として知られている。1563年、演福寺が火災で焼失した時、南大門に遷された。この鐘の音は、その後1900年初まで開城市民に時間を知らせるために響き渡った。演福寺の鐘は、高さ3.3メートル、口径は1.9メートル、重さは14トンに達する。鐘の表面には幾つかの線が帯状に廻り、上下二段に分かれ、仏や文様、文字などが浮き彫りにされている。この鐘口の周りには、波状の屈曲を描き、その周囲には波に乗って泳ぐ魚、龍、鳳凰、蟹などを刻している。その上には、この鐘を鋳造した年代と、鐘の由来を記している。また、この鐘の上部には、仏教の教えをめぐらし、仏たちなどを浮き彫りにしている。演福寺の鐘の形も麗しく、彫刻も繊細である。かつ、その名を高めさせたのは鐘の音の澄み切った美しさ、その響きと余韻は100里の外にまで響き渡ったという。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天) [朝鮮新報 2006.5.1] |