日朝松本市民会議主催 第13回日朝交流史セミナー 百済文化の影響色濃い浅間大社 |
久能山の東照宮 朝鮮の工匠が造った社殿
春たけなわの4月22、23の両日、遠州灘、駿河湾にのぞむ浜松市、静岡市、沼津市、三島市、富士宮市の史跡に関わる古代朝鮮文化を訪ねた。毎年開かれる日朝松本市民会議の主催による「日朝文化交流史セミナー」である。今年で第13回目であるが、このセミナーの特徴は、史跡を実際に踏査して探るフィールドスタディである。 当日の朝早く、バスで松本市を出発した一行約40人と筆者が合流したのは、最初の対象である富士宮市の富士山本宮浅間大社である。富士山を信仰する1300の各地の浅間神社の総本山にふさわしく、富士山の前面に建つ。 806年、この地に本宮浅間大社を遷し、建立したのは誰であろうか。百済からの渡来の人を母に持つ、桓武天皇が信頼する征夷大将軍・坂上田村麻呂であった。名将・田村麻呂も百済から来た人の子であった。
私たちが次に向かったのは、三島市の三島大社である。三島大社は、伊豆国の一の宮として格式が高かった。明治以来問題になり論争になったのは、祭神である大山祇神と事代主命のうち、どちらが本来の祭神かということであった。学者たちが言うように大山祇神であろう。大山祇神は渡来の神である。 次に向かったのは、沼津市の日枝神社である。祭神は渡来の大山咋神であった。一行は、沼津港で昼食をとって清水港にバスを向けた。目指したのは、御穂神社と三保の松原である。御穂神社の祭神は、出雲・島根県一帯と結びついた渡来系の神であり、大己貴命すなわち大国主命である。 駿河湾一帯の人々は、この大己貴命を渡海、漁業の神として深く信仰している。御穂神社から長く続く松林を抜けると、海辺に連なるのは三保の松林である。天女が羽衣をかけたという海辺の松から見る富士山は、圧倒的な迫力である。感慨を新たにしたのは、金剛山の谷川の松に衣をかけて若者に盗まれたという天女の嘆きの伝説が「駿河風土記」が伝える三保の松原にもおよんでいることであった。
次に訪れたのは、名勝・日本平と登呂遺跡である。日本平からロープウェイに乗って久能山の山頂に至ると、徳川家康ゆかりの東照宮である。その豪華絢爛たる社殿の造りが、朝鮮からの工匠、技術者たちによって造られたことはあまり知られていない。この協力は、豊臣秀吉と違って、戦いに与せず、朝鮮と和を結んだのが家康であったからである。 久能山から下って静岡市登呂5丁目の登呂遺跡に入る。1943年、太平洋戦争の最中、弥生時代後期の水田跡や住居跡が発見され、大いに話題となったが、朝鮮との関わりは、論議されることなく戦後の1947年からの大規模な発掘調査から次第に認識されていった。こうして第1日を終えた一行は、宿所の浜松市の館山寺温泉ホテルに向かった。宿所は、浜名湖の静かな湖岸にのぞむ瀟洒なホテルであった。気心の知れた一行の夕べの宴もまた、日朝友好の和やかな一時であった。 翌朝一行は、龍潭寺に向かう。龍潭寺は徳川幕府の重鎮・井伊家の菩提寺であるが、徳川期最大の文化人であり、名匠である小堀遠州の手による美しい庭園がある。さらに私たちが注目したのは、龍潭寺が733年、渡来の名僧として名高い行基によって創建されたことである。龍潭寺から最終の目的地である伊場遺跡への道は、浜松の渡来文化の源を探る試みでもあった。浜松駅近くに位置する伊場遺跡は、、今より4000年前からの遺跡であるが、興味を引くのは現在も残されている紀元前、弥生時代の渡来の環濠遺跡である。三重の濠を廻らした住居地の一部や資料館に残された木の鎧などの貴重な遺物は、私たちに深い感銘を残してくれた。(全浩天、在日本歴史考古学協会会長) [朝鮮新報 2006.5.17] |