〈人物で見る朝鮮科学史−11〉 広開土王とその時代(番外編) |
筆者が教壇に立つ朝鮮大学校は今年で創立50周年を迎えた。それを記念して朝鮮から付属歴史博物館に多数の歴史遺物が贈られてきたが、最も貴重な一品は古朝鮮独自の青銅文化を実証する琵琶型短剣で、関係者によれば日本で一般に展示されているのはここだけということである。むろん、その他の展示物にも興味をそそられるが、とくに目を引くのは高句麗壁画の原寸大の精巧な模写である。筆者もしばしば内外の研究者を案内するが、なかでも江西大墓、中墓に描かれた青龍、朱雀、玄武、白虎の四神図の前では誰もが立ち止まる。 それは、その芸術性の高さに圧倒されてのことであるが、科学史的にはそこに用いられている顔料、すなわち絵の具の威力に注目する。それらは鉱物性の顔料で、例えば緑青は孔雀石を砕き、赤色は酸化鉄の弁柄(べんがら)、硫化水銀の辰砂を用いた。その鉱物精錬技術の高さは、6世紀中国の有名な博物学書「本草經集註」に、高句麗の金は精錬され(純度が高く)服用することができるという記述からも十分に知ることができる。 さて、高句麗壁画古墳群の世界遺産登録に奔走された人は東京芸大学長で日本画の大家平山郁夫画伯であるが、画伯と高句麗壁画とのかかわりは1967年に遡る。その年の院展に画伯は「卑弥呼擴壁幻想」という作品を発表するが、それは邪馬台国の女王卑弥呼の墓が存在したならば、こんなイメージであろうかと想像し幻想的な世界を描いたものであった。
その際、画伯は卑弥呼の衣装を高句麗水山里古墳壁画の女性像を参考に、背景を描くときにも壁画の樹木などを念頭に置いたという。そして、その4年後に高松塚古墳壁画が発掘されるが、まさにそこに描かれていた女性像は画伯がイメージした卑弥呼と同じ服装であったのである。それは、とりも直さず水山里壁画と高松塚壁画の女性像が酷似していることを意味する。 自身の絵画と壁画のトライアングルから、画伯は高句麗壁画の保存に協力しなければと強く感じたという。そして、1997年からユネスコの親善大使として9回にわたって訪朝し、さまざまな機材を持ち込み壁画の保存状態などの調査を終えて、結果2004年7月に世界遺産に指定されることになったのである。 日本に初めて彩色技術と紙を持ち込んだのは610年に来日した高句麗の曇徴であるが、それは高句麗壁画の技術と同様と思われる。日本画の「岩絵の具」も鉱物性で膠(にかわ)で溶いて画面に定着させるが、おそらくそれは壁画を描く際の技法でもあったはずである。そして、それを伝承する第一人者が高句麗壁画の保存に尽力する、というのも歴史のめぐり合わせというものだろう。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.5.22] |