〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−9〉 独立闘士 南慈賢 |
南慈賢(ナムジャヒョン)は封建的な儒学者の妻から抗日解放運動の闘士となり文字どおり自分の身を削って闘った女性である。 彼女は1872年、慶尚北道英陽郡で生まれた。父、南廷漢(ナムジョンハン)は、李朝の高官で、門下生70名を率いる有名な漢学者であった。夫の金永周(キムヨンジュ)も父の門下生の一人で、1895年、日本による明成皇后虐殺事件と親日内閣成立に反発する義兵闘争に参加中戦死した。 彼女は7歳でハングルを学び、12歳の時から父の下で「小学」、「大学」を読み終え、19歳で結婚した。しかし不幸にも夫の戦死後に3代続きの一人息子を出産した。 独立運動に参加 婚家の父母を孝養し表彰された事もある彼女であったが、1919年独立運動の勢いが高まる中ソウルに向かい示威運動の協議に参加、3月1日群衆とともに「独立万歳!」を叫び宣言文をまいた。数日後の3月9日、中国満州に渡った彼女は金東三(キムドンサム)の率いる西路軍政署に入団した。それから家に連絡を取り息子、金(キム)ソンナムを独立軍養成所である新興武官学校に入学させた。 50代で武装闘争に参加する一方同胞のいる村、団体を巡回しながら、独立精神を鼓吹、12カ所に教会を建て、各地に女子教育会を組織するなど女性の啓蒙にも力を注いだ。特に同志、団体間の派閥争いを和解、結集させることに大きく寄与した。 28年、独立運動家・安昌浩(アンチャンホ)が吉林の朝鮮居留民大会で演説中捕らわれた時、彼女は粘り強い抗議運動で取り締まられた47人と共に釈放させた事もある。 30年10月、金東三(キムドンサム)が日警に逮捕された時には親戚を装い、日本領事館に行き、重要な連絡が取れるよう便宜を図った。写真を撮るのを嫌い、「革命軍が写真とは何たる事か」と息子の頼みにも応じなかった彼女だったが、安昌浩(アンチャンホ)の出獄日には自ら請し写真を撮った。今残る彼女の遺影はその時のものである。 彼女は国内に潜入、軍資金を集める仕事に力を尽くし、また26年には同志らと斎藤(サイトウ)朝鮮総督を暗殺するためソウルに入った事もある。これは別人による未遂事件が発覚し目的を果たせず厳しい警戒網の中帰還せざるをえなかった。 暗殺計画 31年、「国際連盟調査団」が満州に派遣された時、彼女は左の薬指二間節を切断して白布に「朝鮮独立願」と血書し、これを切断した指と共に包んで調査団に送った。これは朝鮮民族の独立を願う心を示したもので国際的にもセンセーションをまきおこした。彼女は独立を訴える大事を起こす度、このように指を切断し、血書したために、10指中まともな指は一つもなかったという。 33年「満州国」建国記念日の3月1日、彼女はこれが最後となる活動に入った。それは傀儡政権を背後で操っていた全権大使、武藤信義(ムトウノブヨシ)が行事に参加する際暗殺しようとするものである。彼女は武器と爆弾を身につけ中国人乞食の老婆に変装した。しかし李(リ)ギュドンらと列車に乗りハルピン郊外を通過していた2月27日、密告を受け逮捕される。その時彼女は上着の下に夫が戦死した時の血のついた軍服を身につけていたという。 6カ月が過ぎても終結しない予審、国内裁判所移送への要求拒絶と残酷な拷問に、彼女は8月6日から断食闘争をもって対抗した。 財産をささげ 2週間後「母病危急即来」と言う電報を受け取り息子が駆けつけた時、彼女はひどく衰弱し痩せ細っていた。8月21日独立軍の経営する旅館に移り息子が持ってきてくれた布団、孫娘が送ってくれた枕を敷いて横になった。そして息子の手を取りこう言った。 「朝鮮の独立は武力でもなく金でもない。朝鮮人の精神だけだ」。そして、枕もとに集まった人たちに「朝鮮人は朝鮮の精神を失うことなく生きなければならない」と言った。100余名の旅館客はみな涙を流した。 彼女は、ふろしきに入っているお金、200円は独立した時祝い金として政府に納め、40円は孫の学費としてつかい、8円80銭は孤児になった実家の曾孫の面倒をみて、後継ぎのいない家の代を継いでくれるよう息子に頼んで静かに目を閉じた。享年62歳であった。葬儀は居留民団葬として執り行われた。 解放後最初に迎えた3月1日、彼女の遺言どおり200円は息子によって金九(キムグ)に手渡された。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) 南慈賢(1872〜1933)。3.1独立運動に参加。その直後中国に渡り西路軍政署で活躍する一方教会、女性教育会をつくり独立運動と女性の啓蒙に力を注ぐ。国内に潜入し斎藤実総督暗殺を計画したが失敗。「国際連盟調査団」がハルピン入りした時、左の薬指を切断「朝鮮独立願」と血書し、これを切断した指といっしょに送り朝鮮の独立を訴えた。 [朝鮮新報 2006.5.22] |