〈沖縄で−上〉 辺野古、平沢、梅香里結ぶ怒りと悲しみ |
ジュゴン、ジンベエザメ、マンタ泳ぐ海守れ
3月中旬、私は5日間沖縄にいた。取材や調査のためではない。娘と三男坊夫婦が、年をとったアボジにプレゼントしようとして沖縄行を企図したのである。どうやら親孝行のつもりらしい。 話を聞いて私は、封建的な女性服従の「三従の教え」の3番目を思い出した。「老いては子に従え」。まあ、お任せしよう。2組の夫婦は何回か集って、私を案内する所や日程を綿密に組んでいったらしい。 3月15日、羽田空港で搭乗を待つ間、私は遠慮がちに最低、私が見たい3つの希望条件を申し出た。@は沖縄の歴史と伝統に関して首里城および2、3の地、Aは60年前の戦跡地、とくに摩文仁の丘一帯と「ひめゆりの塔」や「平和の礎」など、Bは現在の沖縄を象徴する嘉手納、または普天間の米軍基地が一望できるところ、である。なんと、このほとんどが日程に組み込まれていた。もはや言うべきことはない。かくして老父妻に2組の夫婦、もうすぐ満2歳になる三男坊の娘の7人は羽田を飛び立った。 2時間50分ほどで那覇空港着。ただちにレンタカーを借りる。これより5日間、三男坊と娘婿は交替で運転することになる。初めに波上宮と護国寺に行く。古琉球の成立に関わりの深い所という。夕食は市の公設市場の2階。何軒もの食堂には客がいっぱいだった。幾種類かの沖縄大衆料理を食べた。
食後、1階の市場を見て回った。東京などで見慣れたものとかなり違う、沖縄独特のものである。果物や魚類も珍しい。沖縄の料理にはブタ肉が多く使われ、これが柔らかくてうまい。肉屋の前に来たら、豚の顔の部分をそっくり剥いで何枚か並べているのがあった。この地では普通の光景なのだろうが、外から来た人間には少し異様に映る。老妻いわく、「何か、外国に来たみたい」。 宿は沖縄市の小高いところに建つホテルで、10何階かにある部屋は、はるかに海も望見でき、夜景が美しい。ここに4日間泊まることになる。外国人客がかなり多い。朝食はお決まりのバイキング、昼食と夕食は外の食堂と日程が組まれている。 3月16日、「沖縄美ら海水族館」に案内された。沖縄本島は北から南まで、130Kmの細長い島である。鉄道はなく、交通は自動車、バスを利用する。今は、中部から南部にかけて約60Kmぐらいの高速道路があり、交通渋滞を和らげているという。私達の車は嘉手納米軍基地を左に見て高速に入り、北に向った。
「美ら海水族館」は実に壮大な水族館である。世界最大の魚、ジンベエザメが3匹もいるというのも驚きだ。それにエイの最も大きい種類のマンタが何匹も一緒に泳いでいる。まさに大人にとっても、子供にとっても幻想の世界である。一度は訪れる価値の十分にある所であろう。 今帰仁城跡に行く。荒けずりな城壁が延々と続く山城。尚一族に亡ぼされるまでは北山王の居城であったという。今は世界遺産である。 3月17日、普天間米軍基地のある宜野湾市の佐喜真美術館に案内された。ここは、埼玉県東松山市にある、丸山位里、俊夫妻美術館の「原爆の図」に匹敵する同夫妻の「沖縄戦の図」があることで知られている。私はそのつもりで入館した。 入ってすぐ右の方に1枚の着物がかざられていた。「伝統的な沖縄の着物か」くらいに見て通りすぎようとしたら、娘が声をかけた。「アボジ、よく見てよ」。何かあるな、と歩を戻して着物の図柄に見入って「ウーン」と唸った。鳥が飛び、蝶が舞い、花が咲きほこっている。そんな平和な図に、戦闘機があり、「オスプレー」と呼ばれるヘリコプター、それに、落下傘に機銃を構えた米兵が降下している姿が縦横に入り交って織り込まれているではないか。そして下部には、ジュゴンや沖縄の楽器などの平和を象徴するものが描かれている。 今、普天間基地の移転先とされている名護市の辺野古崎はジュゴンの生息地で知られている。 私は館の若い女性職員に詳細な説明を受けることになった。着物は、沖縄伝統の紅型、打掛。沖縄では赤、黄、緑などの多色の型染を紅型というという。この打掛は「結いyou−I」と題されていて、2003年の作。作者は沖縄生れの照屋勇賢氏。1973年生れの若手芸術家である。この美術館は1992年に普天間基地の一部が返還された後に建設された。 つまりフェンス1枚を隔てて、あの広大な普天間基地と境を接しているのである。ゆえにこの美術館の屋上に登れば、普天間基地が一望できる。屋上に登ってみた。米軍機がひっきりなしに飛び立っていた。その爆音、その騒音、これが60年以上続く。 現在、日米間、また沖縄県名護市と日本政府間の普天間基地移転に伴う名護市辺野古崎をめぐる問題は、単に、米軍基地周辺の住民に限られた問題ではない。米国の軍事的世界戦略に伴う基地再編の問題とからんだ、日本各地、そして韓国での平沢、梅香里などの反基地闘争と連動しているのである。 はからずも、この美術館の一枚の「打掛」は、実に今の沖縄の怒りと悲しみを見事に凝縮したものであった。 心ある人々よ、もし沖縄を訪ねることがあったら、ぜひこの美術館にある丸木夫妻の「沖縄戦の図」と、この一枚の「打掛」を一見されんことを。(琴秉洞、朝・日関係史研究者) [朝鮮新報 2006.5.23] |