〈人物で見る朝鮮科学史−12〉 武寧王とその時代(上) |
高句麗、百済、新羅に関する最古の文献は、1145年に編さんされた「三国史記」である。最古といっても同時代ではなく高麗時代に編さんされたものなので、その間に消失した記録や誤って伝えられた記録もある。また、編者の金富軾は新羅王室の後裔なので、新羅の正統性を主張する傾向があることにも留意しなければならない。 その「三国史記」によれば、百済は高句麗の建国者である朱蒙の息子・温祚が、紀元前18年に建国したとされる。以前に高句麗の建国を紀元前277年と紹介したが、それとは時間的に差がありすぎると思う人もいるに違いない。その差を埋めるのは歴史学者の仕事なので、ここではこれ以上立ち入らないことにする。 さて、百済は温祚を始祖として660年に滅亡するまで31代の王を数えるが、第25代の王が武寧王(在位501〜523年)で、百済の地位を確定し日本の大和政権と国交を結んだのも武寧王といわれている。ゆえに、今日、われわれがイメージするところの「三国時代」を代表する王といえるだろう。これまで高句麗や新羅に比べて百済の遺跡は少なく、何となく影が薄かった感があるが、近年、重要な遺跡が多数発掘されその高い文化水準に注目が集まっている。その代表的な例がほかならぬ武寧王陵である。
1971年に発掘された王陵は直径約20メートルの円形墳丘で、内部のアーチ上の構造物は天井や壁はもちろん、床も「{」という文様を施したレンガで敷きつめられている。一番奥の玄室に王と王妃の木棺が置かれ、埋葬者を確認できる墓誌石とともに金冠やガラス装飾品など108種、約3000点の埋葬品が確認された。王陵のほとんどは盗掘されたものが多いなか、この遺跡はほとんど無傷であり、それらによって百済の高い文化水準があらためてクローズアップされることになったのである。 さらに、人々を驚愕させた百済の遺品が1995年に発掘された「金銅龍鳳蓬莱山香炉」である。高さ64センチ、重さ11.8キロの青銅香炉は6〜7世紀頃の作といわれるが、天に舞い上がろうとする龍と蓮の花弁、不老不死の仙人が住むという伝説の蓬莱山74の峰と頂上で羽を広げた鳳凰、これほど精緻で芸術性の高い青銅鋳造品は類がなく、まさに百済金属工芸の最高傑作である。 技術的には蜜蝋鋳型で鋳造し、水銀と金の合金を表面に塗り、焼成して水銀を蒸発させて鍍金(メッキ)する水銀アマルガム法を用いている。この技術は仏像鋳造にも発揮されているが、なかでも7世紀に造られた「金銅弥勒半跏思惟像」は、あまりにも有名である。さらに、奈良東大寺の大仏鋳造において主導的役割を果たしたのが、百済の技術者たちであったことは周知の事実である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.5.27] |