〈沖縄で−下〉 「平和の礎」に刻印された426人の名前 |
朝鮮同胞の惨禍いまだに不明
首里城に行く。旧琉球王国、尚氏の居城跡である。琉球王国の興廃、琉球の日本編入等の史実は略したい。 首里城は第2次大戦時、日本軍の司令部が置かれたゆえに、完全に消失したが1992年に復元した。復元された首里城は壮麗の一語につきる。紙数の都合で詳細は避けたい。 城内に伝統の紅型衣裳が何点か展示されていた。王家の人々が着用したものであろう。絢爛たるものである(首里城も世界遺産である)。 旧海軍司令部壕(豊見城市)に行く。ここは沖縄での海軍司令部のあった所で、2004年に公開された。壕は米軍の艦砲射撃に耐えられるよう横穴式に数百b掘られ、司令官室、作戦室などがある。司令官、参謀などもこの壕で自決した。海軍司令官大田実少将は自決の前、海軍次官宛の電報で、沖縄県民の涙ぐましい数々の悲惨と自己犠牲的献身の実例を挙げ「県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを」と結んだ。 摩文仁の丘一帯、そして「平和の礎」に行く。 沖縄本島の最南端糸満市。摩文仁の丘一帯は沖縄戦でも最後の地となった激戦地である。
米軍は約55万の軍を編成し、攻略部隊約19万を沖縄に上陸させる。迎えうつ日本軍は約11万余というが、1/3は現地徴集の補充兵である。 その内訳は例えば阿嘉島では小学校の高等科の児童まで防衛隊に編入し、久場島などの銅鉱山に鉱夫として連行されていた朝鮮人350人も阿嘉島に移して防衛隊に編入した(山岡荘八『小説、太平洋戦争〈7〉』)。この阿嘉島に1945年3月26日、米軍は戦車40台と共に上陸する。 その後の酸鼻は語るに忍びない。 この時期、沖縄には多くの朝鮮同胞が兵として、軍属として、または労務者として拉致連行され、鉱夫として、軍施設や飛行場作りに、港湾の荷揚げ人足として、または地下壕や防空壕作りに従事させられていた。その数、幾千、幾万なるかは知らない。 これに朝鮮人慰安婦の問題が重なる。沖縄での朝鮮同胞の最期についての詳細は知られていない。首里城にあった軍司令部は、いくつかの戦闘で戦力の大半を失い、本島南端に移る。住民に対する日本軍の食料略奪、虐殺事件が続発する。6月23日、全軍の軍司令官牛島満中将と長参謀長は摩文仁の軍司令部で自決する。
戦後、体験者は「アメリカ兵よりも友軍(日本)兵がこわかった」と語っているが、日本軍は食料略奪、住民に対する集団自決強要、スパイといっては処刑した。 日本軍には、沖縄県民に対する歴史的な差別意識があったのである。 今の日本政府の沖縄県名護市長に対する基地移転地強要は、天皇という絶対権力を背にした旧日本軍が県民に対したごとく、米国という権力を背に沖縄県民に対していることと2重映しに見える。「特別の御高配を賜わらんことを」と切々たる電報を打った大田少将の心を日本政府が生かしているとは到底思えないのである。 しばらく前、NHKの教養番組で沖縄国際大学の又吉盛清教授は、沖縄戦での悲惨の1つに日本軍の沖縄蔑視観を挙げ、また、沖縄県民には朝鮮人に対して蔑視観があったと批判した。私はこの人は信頼できる、と確信したものである。 私たちは夕方近く、「ひめゆりの塔」に行き、摩文仁に行った。ここには「平和の礎」が建てられている。 「礎」には米軍戦死者を含む、すべての戦没者、約24万人の名が刻まれている。勿論、同胞の名を刻した「礎」もある。碑の4面にわたって同胞の名があった。今のところ南北計426人である。私はカメラを構えてその1面、1面を収めることにする。この同胞たちはどんな場所で、どんな最期を遂げたのだろうと思いつつ、1面、2面とシャッターを切り、3面に向った時、あろうことか、突然こみあげてくるものがあり両眼から涙があふれ落ちしばし止まらなかった。さらに嗚咽の声ももらしていた。 3月18日は、本島の最北端、辺戸岬に行く。途中、2、3の島にも寄った。沖縄の自然の美しさがよくわかった。 3月19日、年来の願望が達せられた一定の充足感と、沖縄に対する更なる同情と大いなる懸念をいだきつつ那覇空港を飛び立った。 それにしても沖縄に私は泣くだけのために来たのであろうか。(琴秉洞、朝・日近代史研究者) [朝鮮新報 2006.8.29] |