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〈生涯現役〉 城北初級教育会顧問、バス運転手36年−金泰文さん

1人の手で

「最後までこのハッキョを守る」と金さん

 「学校を最後まで守りたい。その一心で今まで続けてきたんや」−その言葉は、一度心に決めたことは最後まで貫き通す「一本気の男」を感じさせる。

 36年間、城北朝鮮初級学校(大阪市旭区)のバス運転手としてウリハッキョのためにすべてを捧げてきた同校教育会顧問の金泰文さん(71)。「10年前までは今よりもっと動けていたのに」と笑い飛ばす。とにかく、じっとしていられない性分だ。70を超えても10数年前とやることは変わらない。バスの移動距離は朝夕の往復6時間、100kgを超える。学校ではさまざまな作業に取りくむ。校内にあるほとんどの物を自らの手で作った。焼却炉、サッカーのゴール、鉄棒、駐輪場の屋根…。時には生徒をウリハッキョに入学させるため、対象となる子どもの親にも車を出して会いにいく。

 1959年11月創立時に建てられた木造校舎は、現在も当時のままだ。「全国のウリハッキョで一番古い」と金さん。校舎の老朽化のため床が抜ける、電気や屋根の修理、講堂の雨漏りなんかも日常茶飯事。さまざまな場所で補修作業が必要となってくる。あげくのはてには大雨になるとグラウンドに池のような水溜りができる。長年使っているバスもちょくちょく故障したりもする。そんな時、普通は業者を呼ぶが、「学校に業者は一度も入ってきたことがあれへんのや」。それらすべてを自分の手で直した。学校の財政は黒字に転じた。

 「業者なんか呼んだら学校にお金がかかりよる。自分の手で直したら年間200万円は浮くんやから。すべてはウリハッキョ、子供、そして先生たちのため」

分会長として

園児たちと「園外保育」に出たときの一枚

 1936年、5人兄弟の長男として京都で生まれた。戦争が始まると家族で島根県に疎開。小、中学時代は日本学校に通った。「朝鮮人差別がほんまにひどかった。生活も苦しかったから親の闇商売を手伝った。米商売にタッペギ商売、なんでもやった」。小5の時に日本敗戦。中学卒業後は家計を支えるため、すぐに働きに出た。魚の加工場、土木の仕事で飯場回りなどをした。「土木の現場は朝鮮人ばっかりで、そこには博打する人もおれば、小説が大好きな人もいた。当時、朝鮮語は書けなかったが聞くことはできた。だからそれを読んでもらって聞くのが好きだった」。

 20歳の時に結婚。島根県内のいろいろな場所で仕事を続けるが、「田舎にいてもおもしろくなかった」。当時、島根での日当は350円。大阪に行くと日当1000円がもらえると知ると、思い立ったら吉日、すぐに大阪へと出向いた。妻と子ども2人を抱えた30歳の時だ。大阪ではダンプを運転する仕事を得た。給料もよく、仕事も順調だった。

 ある日、家を訪ねてくる人がいた。河北支部の専従活動家だ。「朝鮮人は朝鮮人同士で生きなあかんいうてな、そこから付き合いが始まった」。

 ダンプの仕事を続けながら、城北初級のバスの故障を修理したりして同胞たちとの関係をいっそう深いものへとしていく。一方で総連守口1分会の分会長として愛国活動にも献身した。同胞らを集めるため昼夜を問わず走り回った。「東京での中央大会や8.15の行事への動員などで、ダンプの仕事はほとんどできんかった」。

祖国からの「勲章」

 34歳になる年のある日、当時の校長が訪ねてきて「新しい人が見つかるまで、専任のバス運転手をしてほしい」と頼まれる。「最初はとにかく断った。それでも毎日訪ねてくるから根負けした」。しかし、生活は一気に苦しくなった。それまでは月に10数万円の給料を家に入れていたが学校での給料は3万。苦労も多かったが3人の子どもも同校を卒業した。

 「何回もやめるゆうてケンカもしたけど、誰が変わりをするんや思うてな…子ども、先生たちの笑顔みたら最後までやらなあかんって思った」

 還暦を迎えた1996年、祖国から「功勲運転士」の称号が授与された。97年1月には学校の講堂で祝賀会も催され、約130人の同胞たちが盛大に祝った。その時、約40万円の祝儀が集まったがそれもすべて「学校の運営のため」と寄付した。

 「みんなの支えがあってここまでこられた。城北ハッキョに骨をうずめる覚悟でやっとる。体が動くまでやれる事はやる」

 36年の歳月で見てきた卒業生は1000人を超す。今では金さんのバスに乗った親子2代もいるほどだ。「卒業生たちが学校に訪ねてくるとやっぱりうれしい。『アジョシ! 昔はほんまに恐かったわ!』なんて声をかけられたりしてね(笑)」。

 同校は3年後、創立50周年を迎える。減少傾向にあった生徒数は、教育会、教員、学父母たちの熱心な活動により年々増え続けている。金さんには思い描く大きな夢がある。

 「新しい校舎を建てたい。支部もデイハウスもあって、若いのも年寄りもみんなが一つに集まれる同胞たちの拠点にしたい。そのためにも若い世代がしっかり引き継いで守ってほしい」(金明c記者)

[朝鮮新報 2006.6.5]