〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜C〉 王建陵と恭愍王陵 |
太祖の顕陵
高麗文化というとややもすれば、高麗磁器と八万大蔵経などの仏教経典のみを思い起こす。高麗文化は、決してこれにとどまらない。開城市の世界遺産を訪ねる時、高麗王朝陵墓の探訪は欠かせない。高麗王朝の陵墓を訪ねたい。王朝の陵墓群は、開城市の西側と南側に位置する開豊郡と板門郡に集中している。とりわけ、475年間の高麗王朝の盛衰と、その文化をじかに体験し触れたい人には、王たちが眠る陵墓の見学を勧めたい。太祖王建をはじめとする、歴代の王と王族たちの陵墓は、開城市の西南、開豊郡と板門郡の59カ所にわたって点在している。開豊郡には、太祖・王建陵をはじめとして、恭愍王陵や、宣陵、太陵、高陵などがあり、板門郡には康陵、成陵などがある。
918年、太祖王建によって建国され、第34代の恭譲王の1392年に滅亡するまでの475年間にわたって継続された王朝の奥津城である。現在よく知られ訪ねる人も多いのは、太祖の王建陵と第31代の恭愍王陵である。王建陵とその墓域が整備される以前は、恭愍王陵がよく知られ、観光名所の1つとして欠かせなかった。ところが、装いを新たにした王建陵が公開されると、にわかに脚光を浴びて話題になった。 開城市の羅城の西側、開豊郡の北側に位置する海仙里には、新しく整備された太祖王建の墓域がある。そのすばらしい風景のなかに、王建の陵墓である顕陵が築かれている。高麗を建国した太祖王建は、幼いときから聡明であったと高麗史は伝えている。王建は、918年に王位に就き、943年に薨じて現在の海仙里の陵墓に葬られた。王建陵は、深い樹林に包まれた小高い丘陵の上に築かれている。前方は広く開かれ、ゆるやかな傾斜の向こうには、海仙里の沃野と樹林が美しく点在する。王建陵は、風水思想に基づいて築かれた代表的な墳墓である。
筆者が初めて王建陵を訪れたのは、初秋の晴れた日である。王建陵は、深い静寂の中にあった。ゆるやかな斜面を登り、左右の芝生に挟まれ、綺麗に舗装された道と石段を登ると、中央正面に顕陵・王建陵が位置している。王建陵の荘重さをよく示すのは、配置された石像と石獣などの石造施設のみごとさである。王陵正面の左右には、武臣、文臣の石像が立ち並んでいる。陵墓の外周には、石像の欄干と石獣が配置されている。筆者は、墓室に入って内壁に描かれた壁画を見たときの強烈な印象を今でも忘れることができない。そこには、松竹梅の絵が東西南北の方角を守護する青龍、白虎とともに鮮やかな色で描かれていたのである。私たちは、壁画というと高句麗壁画を思い起こす。しかし、この絵はそれと違う。墨絵風に描かれているのだ。長く高句麗壁画の強烈な写実に親しんできた筆者は、驚きとともに新鮮な感動を覚えたのである。新文化の始まりを王建陵の松竹梅の絵に見る思いがしてならない。墨絵はここに始まるのか。 恭愍王陵
1351年に王位に就き、1374年に薨じた恭愍王の陵墓は、妃の墳墓と並んで築かれた双墳である。王建陵の南方に位置し、同じ開豊郡海仙里にある。恭愍王の時代で特徴的なのは、2つの外国からの攻撃と、それに抵抗する戦いである。1つは、モンゴル族の国家である元による高麗の内政に対する干渉、圧迫に反対する高麗人民の怒りと闘争が、公然と開始されたことである。今一つは、日本列島からの倭寇の襲撃と略奪に反対する高麗政府と人民の戦いであった。 こうした時期に築かれた恭愍王陵は、王の生前に築造された寿陵であった。恭愍王陵は、1365年から1372年にかけて築かれた。陵墓は、鳳鳴山のゆるやかな中腹丘陵の南麓に築かれた。西側(向かって左側)は、王が眠る玄陵、東側(向かって右側)は王妃の陵・正陵である。高麗王陵の中で王と王妃の陵が隣接して並んでいるのはこの陵墓だけである。恭愍王陵の墓域は東西に長い長方形の3層の段とその下の広い段からなっている。玄陵と正陵の裾には、華麗な12角の屏風石がめぐり、それと平行して12角形の石の欄干がめぐっている。陵墓の左右には、4体の文官像と4体の武官像が並列している。これらの石人群像が周囲の風景と調和した見事な形姿であることにも驚かされる。 恭愍王陵を訪れたとき、ぜひ見ていただきたい遺跡がある。王陵前方のすぐ横に、広通普済禅寺という寺の跡がある。そこには広通普済禅寺の碑石がある。この広通普済禅寺碑には寺の由来が記されている。この寺は、恭愍王と王妃を弔うための寺であるという。注目されるのは、王陵の前に寺院が建立されていることである。陵墓の前に王の冥福を祈る寺が建てられるのは、高句麗独特の様式である。高麗文化は、高句麗文化の継承であるというが、その例証の1つが王陵の前に寺院があることである。高句麗建国の祖、東明王朱蒙の陵墓である平壌市の東明王陵の前方に著名な定陵寺があることを想起してほしい。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天) [朝鮮新報 2006.6.7] |