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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−10〉 労働運動家 姜周龍

 姜周龍は、女性労働者の待遇改善を求めるスト団のリーダーとして平壌、乙密台の屋上で9時間以上の篭城ストを敢行した労働運動家である。

 生まれたのは平安北道の江界。しかし朝鮮に対する日本の植民地化が始まり父の事業が失敗。14歳の時家族とともに、土地を求め西間島に移住。20歳で5歳年下の崔全斌と結婚した。

 1年後、夫が独立団の第2中隊に入団、彼女も夫とともに活動するが、半年後、夫の勧めで家に帰る。入団1年後、夫が病で急死、婚家では夫を殺した女だと疑い彼女を警察に告発、1週間留置場に囲まれる身となった。

ゴム工場で働く

 姜が帰国したのは24歳の時だった。沙里院で1年間暮らしたあと、平壌に出て平原ゴム工場の労働者として働きながら父母と幼い弟の面倒を見た。

 20年代初頭に始まった平壌のゴム工業は急速に成長し、平壌の工業生産中、第1位にのし上がっていた。しかし、1929年、世界的に大きな恐慌が起こり、その余波は彼女の働く平原ゴム工場にまで襲ってきた。

 工場側は、労働者の賃金を削って生産費を節減し不況を乗り越えようと躍起になっていた。そして30年につづいて31年も賃金の引き下げを決定した。

 一日1円にも満たない低賃金で過酷な労働を強いられ、授乳の時間さえ与えられない女性労働者たちにとって、これ以上の賃金引き下げは生死にかかわる問題であった。

スト決行

 姜は、平原ゴム工場スト団代表としてスト団本部のある船橋里へと向かった。そして各工場の女性労働者代表40余人とともに待遇改善を求めて10余日間工場を占拠、賃金の引き下げを撤回するまでハンストを敢行するが警察によって強制的に工場を追い出される。

 そして、反物店で広木(粗織りの木綿)一疋(二反)を買い乙密台へ向かった。いっそう自決することで、工場側の横暴なふるまいを世間に訴える決心をしたのである。

 桜の木の枝に広木をつるした。寡婦になって10余年。結婚2年目に病死した夫の死で疑われたその時の悔しい思いがよみがえってきた。このまま死んだら若い寡婦がどうして死んだのかとまた誤解されるに違いない。どうせ死ぬならこの乙密台の屋上に上り、工場側と警察の不当性を訴えよう。

 乙密台は平壌の牡丹峰の小高い丘に位置する亭閣。秀麗な景色を眺められる場所として散歩客が多い。この上で叫んだら天までとどくに違いない。

 広木の先で罠をつくり棟にかけようと投げてみたが失敗。考えたすえ、広木の先に大きな石を包んで縛り屋根の向こう側に投げてみた。引っ張ってみると、今度はブランコの綱のようにしっかりしている。綱をつたって屋上に上った。

 時刻は夜中の2時頃、晩春と言っても夜風は冷たい。元気を取り戻すためにはちょっとでも眠らねば。彼女は広木をまくり上げ体にくるんだ。

大衆演説

 騒がしい声に起こされた時、屋根の下にはいつの間にか大勢の人が集まっていた。姜は、自分が屋上に上ったわけから切り出し一場の演説を繰り広げた。

 「私たち49人のスト団は、私たちの賃金引下げを大きな問題と考えているのではありません。これが終局的には平壌2300人のゴム職工の賃金引下げをもたらすため、死ぬ覚悟で反対しようと言うのです。…職工の年収入は多くて200円、低い人は130〜40円で、3〜4人家族がやっと糊口をしのぐ程度です。とくに女性職工の賃金は男性の半分、日本人女性職工よりよっぽど低く酷い差別を受けています。…2300人の私たち女性労働者の骨身が削られないなら私の命は惜しくありません。私が学んだことの中で最も大切な知識は、大衆のために自分を犠牲にすることは名誉なことだということです。…私は…労働大衆を代表して死ぬことを名誉と思うだけです。」(「女性1」1985年、305ページ)

 死を覚悟した彼女の演説は群衆の心をとらえた。だが、警察は姜を検挙する。

 残忍極まりない警察の拷問にも屈することを知らなかった。警察はついに彼女を釈放した。

 長年の苦役と想像を絶する拷問により姜は床に伏し、とうとう帰らぬ人となった。平壌の乙密台は彼女の志のごとく今日も美しく高々とそびえ立っている。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

 姜周龍(1901〜1931)。14歳の時西間島に移住、20歳で結婚。独立団に入団した夫とともに一時活動。その後夫が病死、24歳で帰国。平原ゴム工場労働者として働きながらストライキを組織、スト団代表として平壌、乙密台の屋上で篭城スト敢行、逮捕される。釈放されたあと病死。

[朝鮮新報 2006.6.19]