〈人物で見る朝鮮科学史−13〉 武寧王とその時代(中) |
京都・広隆寺の弥勒菩薩像は、日本の国宝彫刻第1号として知られている。その優雅な姿で人々を魅了する木造仏像であるが、朝鮮から渡来したともいわれている。実際、百済および新羅の「金銅弥勒半跏思惟像」と非常に似ており、仏教自体が朝鮮から伝わったものであることを思えば、何らかの関わりがあることはまちがいないだろう。この「金銅弥勒半跏思惟像」に見られるように、高句麗文化の力強さとは対照的に百済や新羅の文化には優雅な雰囲気がある。それは、前者は狩猟社会であり、後者は農耕社会であったことが影響しているのだろう。 東アジアの農業の基本は稲作であるが、もっとも重要なことは田植えの時期の水利管理である。日本では梅雨時に田植えを行い、夏を経て秋に収穫を行うが、それは実に都合のよい気候といえる。ところが、朝鮮半島の雨は7〜8月に集中し稲作にとって好条件とはいえず、いつでも水を供給できる貯水池の必要性が高まる。そのために百済では大小の人工池を造成したが、その代表的な例が「碧骨池」である。いくつかの水源を堰き止めたものと思われるが、その堤防の長さは約2.2キロにもなり、もし海抜5メートルまで貯水した場合の面積は37km2、実に東京ドーム約800個分にもなる。「三国史記」によれば330年に造成され、510年には武寧王が堤防改修の指示を下している。その後も新羅、高麗、さらには朝鮮王朝時代にも増築されて、その一部は今も利用されている。現在の全羅北道金堤市に位置するが、「金堤」という地名自体が碧骨池の堤防に由来する。
また、施工においても堤防に均一に水圧がかかるように工夫されている。ある文献によれば、紀元1世紀に王景という優れた水利技術者おり、中国にも招かれ河川堤防工事を行っているが、その技術が「碧骨池」にも発揮されたといわれている。さらに、それは日本にも伝わるが、「古事記」「日本書紀」に記された「百済池」「韓人池」は、文字通り百済人技術者によって造られたものである。 さらに、百済では農業生産を高めるために木製から鉄製農器具への改良を行うが、その典型は牛に引かせて田畑を耕す犂(すき)である。科学技術の発展を動力源の種類によって特徴づけるならば、古代は人力と家畜力、中世は風力と水力、近代は熱機関と電気力、そして現代は原子力となるだろう。家畜力を利用した犂は、まさに古代の先進技術であり、「古代のトラクター」として絶大な威力を発揮したことは想像にかたくない。しばしば「食は全州にあり」といわれる。ピピンバッやコンナムル、クッパをはじめ多数の名物があるが、豊かな農産物を背景としたその伝統は、まさに百済時代に始まるのである。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.7.1] |